別名に磔八幡がある。山中共古『吉居雑話』[注釈 1]に磔八幡の謂れが記される。
吉原町西青嶋ニ磔八幡トイフ神社アリ、昔時検見棹打ニ関シ、村民ノ難義ノ為ニ已レ
罪人トナリ磔ニ刑セラレシ 其ヲ、八幡トシテ祀リシト、或時此神社非常ニ流行シ、参詣人モ非常、納物モ多クアリタルヲ、此磔ニサレシ者ノ子孫川口トイヘル人、此社ノ参詣人多キヲ見テ、村持ノ地ヨリ已ノ持地ヘ此神社ヲ移シ、一人〆ニ□入セント企テ、宅地ヘ曳キ入レタレシガ、其後トント参リ人モ無クナリ、今ニサミシキ村社トナレリ、
— 『吉居雑話』
『吉居雑話』によると、以下のようにある。その昔、厳しい検地に抗したある村人が居た。その村人は罪人として磔刑に処されたが、尊敬の念から同地では八幡として祀られた。その人物には子孫がおり、川口といった。川口某は八幡宮が隆盛しているのを見て、村持であったはずの社を自らの宅地へと移してしまった。参詣者による納物が多く、それを一人占めしようと画策したためである。しかし以後はとんと参詣客も居なくなり、寂しい村社に変わり果ててしまったという。
また大正7年(1918年)になると、全国巡遊中に吉原町に寄った大参教渡部松菊斎という人物により、磔八幡の由緒書が著される。同由緒書によると、事の発端は延宝9年(1681年)に青島村が官史に苛烈な検地を受け、青島村の川口市郎兵衛が抗議したことに始まるという。
官史はやむなく検地を中止、幕府へ上申した。市郎兵衛は江戸奉行所へ送られ、審議の結果、磔の刑に処された。享年は二十九であったという。これを伝聞した村民は皆涙を流し、恩人の霊として八幡神社[注釈 2]に合祀し、これを磔八幡と称した。また宝暦13年(1763年)には徳川家治が市郎兵衛の義気を賞して赦免し、卜部兼雄より幣帛を供せられ、それが現存しているとある[3]。
一方、この伝承の基となった史資料は確認されていない。渡部松菊斎による由緒書によると、安政年間の大火災で記録類が焼失したという。また市郎兵衛の末裔を称する家が数十件あるといい、それら川口姓の家との関係性を推測したものある。