八橋町 (知立市)
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| 八橋町 | |
|---|---|
| 町丁 | |
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八橋のかきつばた | |
北緯35度0分25.23秒 東経137度4分25.94秒 / 北緯35.0070083度 東経137.0738722度座標: 北緯35度0分25.23秒 東経137度4分25.94秒 / 北緯35.0070083度 東経137.0738722度 | |
| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[WEB 1]) | |
| 人口 | 5,349 人 |
| 世帯数 | 2,106 世帯 |
| 面積(2020年(令和2年)10月1日現在[WEB 2]) | |
| 1.662229279 km² | |
| 人口密度 | 3217.97 人/km² |
| 郵便番号 | 472-0001[WEB 3] |
| 市外局番 | 0566[WEB 4] |
| ナンバープレート | 三河[WEB 5] |
字一覧
- 赤羽(あかばね)[WEB 6]
- 池下(いけした)[WEB 6]
- 井戸尻(いどじり)[WEB 6]
- 牛毛原(うしけばら)[WEB 6]
- 大流(おおながれ)[WEB 6]
- 踊場(おどりば)[WEB 6]
- 上井場取(かみいばとり)[WEB 6]
- 川原田(かわはらだ)[WEB 6]
- 狐塚(きつねづか)[WEB 6]
- 源田谷(げんだたに)[WEB 6]
- 神戸(ごうど)[WEB 6]
- 五輪(ごりん)[WEB 6]
- 下井場取(しもいばとり)[WEB 6]
- 城下(しろした)[WEB 6]
- 寺内(じない)[WEB 6]
- 高道(たかみち)[WEB 6]
- 町田(ちょうた)[WEB 6]
- 登城(とじょう)[WEB 6]
- 西出口(にしでぐち)[WEB 6]
- 半ノ木(はんのぎ)[WEB 6]
- 東出口(ひがしでぐち)[WEB 6]
- 東畑(ひがしばた)[WEB 6]
- 弁財天(べんざいてん)[WEB 6]
- 前畑(まえはた)[WEB 6]
- 的場(まとば)[WEB 6]
- 薬師(やくし)[WEB 6]
- 山崎(やまざき)[WEB 6]
- 山田谷(やまだたに)[WEB 6]
河川・池沼
- 逢妻男川
- 才兼池
交通
- 名鉄三河線(通過のみ、駅はなし)
- 衣浦豊田道路八橋インターチェンジ
施設
- 浄教寺
- 無量壽寺
- 在原寺
歴史・文化
由来
名前の通り、かつて八つの橋があったと考えられるが、真偽は不明である。
平安時代初期に書かれたとされる『伊勢物語』には、「三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。」という由来の説明がある。かきつばたの群生地としても知られ、在原業平が残したとされる句が有名である。句頭に「かきつばた」の5文字を隠した、折句となっている。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
ただし、寛仁4年11月頃(西暦1020年12月頃か)には菅原孝標女が訪れているが、『更級日記』には「八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所もなし」とあり、その時点では橋の所在が不明になっていたことがうかがい知れる。かきつばたの開花時期も5月頃であり、時期によっては特に際立った特徴のない場所だった可能性がある。
現在では付近に無量壽寺があるが、寺伝によれば奈良時代の慶雲元年(704)の創立と言われている[WEB 7]。
沿革
- 平安時代 - 三河国碧海郡に「八橋」の地名がみえる[1]。古代東海道の両村駅(尾張国)および鳥取駅(三河国)の両駅間の三河国側にあった名所である[1]。
- 江戸時代 - 三河国碧海郡八橋村が所在[1]。刈谷藩に属した[1]。
- 1889年(明治22年) - 牛橋村大字八橋となる[1]。
- 1906年(明治39年) - 知立町大字八橋となる[1]。
- 1970年(昭和45年) - 知立市八橋町となる[1]。
人口の変遷
国勢調査による人口および世帯数の推移。
| 1995年(平成7年)[WEB 8] | 1159世帯 3980人 | |
| 2000年(平成12年)[WEB 9] | 1367世帯 4458人 | |
| 2005年(平成17年)[WEB 10] | 1618世帯 4796人 | |
| 2010年(平成22年)[WEB 11] | 1730世帯 4870人 | |
| 2015年(平成27年)[WEB 12] | 1963世帯 5333人 | |
| 2020年(令和2年)[WEB 1] | 2106世帯 5349人 |
