1910年代から1920年代の変わり目には、東京の台湾人留学生は、「同化主義」と特別立法統治のどちらかが台湾の利益になるかを真剣に考え、議論した。「同化主義」の実現により、台湾総督の特別立法権原をなくし、憲法の保障する権利と、代議制をはじめとする制度を享受することが可能であると考えられる。日本にいる台湾人留学生の多くもはじめは、「同化主義」のこの側面に賛同し、台湾総督による特別立法に反対して、「六三法撤廃運動」をすすめた。1918年(大正7年)夏、林献堂は東京で、「六三法撤廃期成同盟」を発足させた。この「六三法撤廃期成同盟」が正式に活動しないうちに「六三法撤廃運動」を契機として、同年、東京の台湾人留学生により「啓発会」が組織された。しかし、これら運動は、同年10月29日、台湾総督に田健治郎が就任し、「内地延長主義」を掲げると、苦境に立たされる。「内地延長主義」も、台湾を日本の植民地ではなく、領土とみなし、等しく憲法の統治をうけ、日本の法体系を受け入れるということであり、「同化主義」に属する。しかし、「同化主義」は文化的同化の側面も有しており、台湾独自の歴史、文化、思想、伝統の喪失にもつながる。林呈禄は、この側面を重視し、「六三法撤廃運動」には賛成せず、憲政と民権を求めると同時に台湾の特殊性をも求めるべく、「六三法」の内容を変え、台湾人自治の追及を主張した。台湾人自治のためには、まず議会が必要である。林呈禄のこの主張は、1921年(大正10年)から始まる「台湾議会設置請願運動」につながっていく[3]。本運動を含む日本統治下の台湾人による政治・社会文化活動について