六人部是香
From Wikipedia, the free encyclopedia
六人部 是香(むとべ よしか、寛政10年4月22日(1798年6月6日) - 文久3年11月28日(1864年1月7日))は、幕末の国学者、神道家、歌学者、向日神社神職[1]。初名惟篤、通称は縫殿・美濃守・宿禰などと称する。号は葵渓・葵舎・篶舎・一翁など。生年は文化3年(1806年)[2]とする説もある。
山城国乙訓郡(現京都府向日市)の向日神社神職・六人部忠篤の子として生まれた[2]。若くして父と死別し、伯父・節香(ときか)の養子となった[2]。幼少の頃より特に国学を修め、文政6年(1823年)より江戸で平田篤胤に学んだ[1][2]。門下の秀才の一人で、読書・著述に努めた[2]。篤胤の『幽顕弁』を敷衍し講説した産土信仰や顕幽順考の論で知られる。関西における平田派の重鎮として重んじられ、孝明天皇に毎月進講した[1][2]。晩年は子の是房に神職を委ね、京都の三本木(京都市上京区上生洲町付近)にて神習舎(しんしゅうしゃ)を主宰した[1][2]。歌人・太田垣蓮月は門人の一人[2]。文久3年に病気で死去した[3]。66歳没[4]。