内山惣十郎
日本の俳優
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人物・来歴
1897年(明治30年)12月19日、東京府(現在の東京都)に竹内壮治として生まれる[1]。
1920年(大正9年)9月3日、22歳のころ、根岸興行部の三代目・根岸吉之助が組織した「根岸大歌劇団」に立ち上げから参加する[2]。同歌劇団が根城にした浅草公園六区・金龍館で、俳優のほか、舞台装置、演出を手がけた[1]。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災によって首都は壊滅、浅草六区の興行街も甚大な被害を受け、浅草オペラも終焉に向かった。映画界、演劇界の人材が関西に新天地を求めるなかで、内山も帝国キネマ芦屋撮影所に移り、翌1924年(大正13年)6月26日に公開された若山治監督のサイレント映画『恋慕地獄』で、映画脚本家デビューした[3]。
後に東京に戻り、浅草六区・電気館のレヴュー台本を書いた[1]。1931年(昭和6年)8月発売の榎本健一のレコード『カフェー・ナンセンス』の作詞をする。1934年(昭和9年)、日本劇場の演出部長に就任した[1]。
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の終結後は放送台本を執筆した[1]。1958年(昭和33年)には、日本テレビ製作の『新吾十番勝負』の脚本で、テレビ映画に進出した。
フィルモグラフィ
サイレント映画
- 『恋慕地獄』、監督若山治、帝国キネマ芦屋撮影所、1924年6月26日 - 脚本
- 『恋の勇者』、監督松本英一、帝国キネマ芦屋撮影所、1924年10月10日 - 原作
- 『或る兄弟』、監督大久保忠素、松竹下加茂撮影所、1925年4月9日 - 脚本
- 『結婚哲学』、監督深川ひさし、帝国キネマ芦屋撮影所、1927年2月27日 - 原作
- 『ゴー・ストップ』、監督石原英吉、東亜キネマ京都撮影所、1931年7月7日 - 原作