内村剛介
日本の文芸評論家、ロシア文学者 (1920–2009)
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来歴・人物
栃木県那須郡境村大字大木須(烏山町を経て現・那須烏山市大木須)で零落した百姓の次男として生まれる[3]。中学進学を断念させられて自らの意志で、1934年高等小学校卒業と同時に満州に渡る。満鉄育成学校に入学したのち、転校先の旧制大連第二中学校を経て[1]、1940年ハルピン学院に入学してロシア語を学び、1943年同校を繰上卒業。同年、結婚するも束の間のうちに関東軍総司令部へ徴用される[4]。
敗戦後の混乱の中でソ連のゲー・ペー・ウーにスパイ容疑[注釈 1]で逮捕された後、イルクーツクやモスクワの監獄(ラーゲリ)につながれて11年余りの長きにわたって独房生活を送った[3]。スターリンの死後、いわゆる雪解けに伴って、1956年末、最後の帰還船(「興安丸」)で帰国。帰国後は、色んな職業を転々として糊口をしのいだのち、1960年、倒産した会社から移って日商岩井に入り息をつけるようになった頃から、勤務の傍らで自らの抑留体験に裏付けられた文筆活動を始め、『生き急ぐ』はロングセラーとなる。文筆家としてスターリン主義下のソ連の文学・思想だけでなく、権力と大衆の相互関係にも立ち入って内在的に理解しようとしたほか、戦後の日本についても知識人の優柔不断さや思想状況の軽薄さを鋭く突いた[1]。
1973年、北海道大学教授。1978年から1990年まで上智大学教授。2009年1月30日、心不全のため、東京都世田谷区において死去[2]。88歳没。墓所は八王子市高尾霊園[5]。
著書
単著・対談集
- 『呪縛の構造』現代思潮社 1966年
- 『生き急ぐ スターリン獄の日本人』三省堂新書 1967年 のち国文社、中公文庫、講談社文芸文庫
- 『わが思念を去らぬもの』三一書房 1969年
- 『独白の交錯 対話集』冬樹社 1971年
- 『ソルジェニツィン・ノート』河出書房新社 1971年
- 『流亡と自存』北洋社 1972年
- 『愚図の系譜』白馬書房 1973年
- 『信の飢餓 評論集』冬樹社 1973年
- 『幕末は終末 歴史対談集』新人物往来社 1974年
- 『ナロードへの回帰』二月社 1974年
- 『初原の思念』白馬書房 1975年
- 『妄執の作家たち』河出書房新社 1976年
- 『科学の果ての宗教』講談社学術文庫 1976年
- 『ロシヤ風物誌』西田書店 1977年
- 『ドストエフスキー 人類の知的遺産 51』講談社 1978年
- 『失語と断念 石原吉郎論』思潮社 1979年
- 『ロシア無頼』高木書房 1980年
- 『わが身を吹き抜けたロシア革命』五月書房 2000年 ISBN 978-4-772-70319-2
- 『見るべきほどのことは見つ』恵雅堂出版 2002年 ISBN 978-4-874-30028-2
- 『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく 私の二十世紀』聞き手陶山幾朗、恵雅堂出版 2008年 ISBN 978-4-874-30040-4
- 『内村剛介著作集』全7巻 恵雅堂出版 2008年 - 2013年。陶山幾朗[注釈 2]編
- 第1巻 わが二十世紀茫々
- 第2巻 モスクワ街頭の思想
- 第3巻 ソビエト作家論
- 第4巻 ロシア・インテリゲンチャとは何か
- 第5巻 革命とフォークロア
- 第6巻 日本という異郷
- 第7巻 詩・ことば・翻訳
編著ほか
- 『われらの内なる反国家』大沢正道共編 太平出版社 1970年
- 『スターリン時代 ドキュメント現代史4』平凡社 1973年
- 『だれが商社を裁けるか』 高木書房 1979年
- 監修『ラーゲリ(強制収容所) 註解事典』恵雅堂出版 1996年