1903年11月に京都市左京区吉田で生まれた[1][2]。1926年3月に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年4月に同大学理学部助手に着任した[1]。木村正路研究室で分光学の研究に従事し、日本で最初にラマンスペクトルを測定、1928年12月に報告した[1][2]。当時の実験装置は光源強度が弱く、その分ラマン散乱光も微弱なため、最高80時間試料に対し暴露することによって、ラマンスペクトルの測定に成功した[1]。1930年代中葉から、分光学的手法を原子・分子から固体研究に適用することを考え、蛍光および燐光体の研究を開始した[1]。戦時中は、陸軍からの委託研究として、赤外線検出器や透過材料の開発研究に従事した[1]。
木村正路研究室で1928年3月に講師、1939年に助教授に昇任し、1945年に教授に昇任するとともに同研究室を継承した[2]。
1957年から1958年まで日本分光学会会長、1960年から1963年まで応用物理学会理事、1970年から1973年まで赤外線技術研究会(現在の日本赤外線学会)初代会長を歴任した[2]。1967年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった[2]。同年4月に甲南大学理学部教授に転任し、1971年3月に同大学を定年退官した[2]。1971年4月から1979年3月まで、京都産業大学理学部教授を務めた[2]。
1973年に日本赤外線学会名誉会員、1978年3月に応用物理学会名誉会員となった[2]。1999年9月18日に逝去した[1][2]。享年95。