冷泉範遠
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永正8年(1511年)叙爵。大永元年(1521年)左兵衛佐に任官すると、大永6年(1526年)左馬頭に遷り、大永7年(1527年)左兵衛佐に還任された。この間の大永5年(1525年)従四位下に至るが、以降昇叙された形跡はなく公卿への昇進はならなかったとみられる。天文元年(1532年)出家。
山口に下向し、大内義隆の装束の師を務めた。天文20年(1551年)8月に発生した大寧寺の変において殺害された「一忍軒」が範遠に比定される(萩原大輔)。変において、柳原資定・清原業賢・持明院基規・法性寺親世らは生存しており、変の翌年には飛鳥井雅綱・雅教親子が山口に訪れていることから、陶隆房ら従来の大内氏被官には明確に目標とする公家がおり、それが大内氏家中にて発言権を持っていた小槻伊治と一忍軒(範遠か)であったとする[1]。一方で、大寧寺の変から1ヶ月ほど経った9月28日に死去したともされる[2]。