刑部鉄太郎は武蔵国の士族に生まれた。若くして才気を認められ、文久から元治・慶応初年にかけて神奈川奉行所調役として活動し、のちには奉行並に昇進して松平康直(石見守)の配下となり、400石の禄を受けた。その後は江戸へ転じ、支配組頭を務めた。
安政期には、横浜開港場建設に関与し、江戸の知識人堀口貞明へ送った書簡の中で、開港準備が難航し、締切に間に合うか憂慮している心境を述べつつ、建設費用や請負人・請負額を記している(安政6年4月23日付)。
安政6年(1859)7月27日 横浜でロシアの士官3名を暗殺した浪士の事件では、神奈川奉行所の調役として捜査に当たったが、当時志士たちから鬼鉄と恐れられていたものの検挙に至らなかった。しかしこれは当時刑部が内心は攘夷派であったため、わざと犯人検挙を控えたと、自身の手記に記されている。
刑部は万延元年(1860年)、37歳で万延元年遣米使節に徒目付として参加した。航海に関する記録は『航米実記』『航米日記』『亜墨利加航海日記』『帰報一件留』として伝わり、いずれも刑部鉄太郎の手記である。また「亜米利加渡米日記刑部鉄太郎遺書」は、関東大震災で失われた。
香港寄港時には、御勘定組頭森田清行とともに中国の両替店で筆談により貨幣価格を問い合わせている。
江戸末期、横浜では遊郭が形成され繁栄しており、その中心的な妓楼として知られる「岩亀楼」には「喜遊」という太夫がいたと伝えられる。しかしその実在には不確かな点も多く、創作の可能性も指摘されている。喜遊の存在を示す最初の記述は、万延元年の航海に随行した刑部鉄太郎の手帳の中に見えるとされるが、この手帳の原本も内容も現存せず不明確であり、史料としては断片的である。
大正7年、日米協会の集会で万延使節の話題が出た際、米国大使が新見正興の墓参を提案し、遺族とともに墓参が行われ新見親族が出席。万延使節七十七名のうち生存者はすでになく、刑部の嫡子・真琴(教育者)のみが遺族として参列したと伝わる。
『大武鑑』では、文久2年に神奈川奉行所調役、文久3年に日光奉行支配組頭、元治元年にも同職を務めていたと記録されている。