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劉毅 (西晋)

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劉毅(りゅう き、216年 - 285年)は中国の魏・西晋に仕えた政治家。字は仲雄(ちゅうゆう)。本貫は東萊郡腋県。前漢の城陽景王劉章の子孫。魏の丞相属[注 1]・劉喈の子。劉暾・劉総の父。男性。

九品官人法を「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と非難し、廃止を主張したことで知られる。

生涯

魏

幼少より親孝行で、若い頃より節操があり、人物評を好んだ。王侯・貴人たちは噂を聞き、劉毅を憚った。 河東郡平陽県に仮住まいしていた時に、太守の杜恕に招聘され、功曹(人事官)となり、郡吏百人あまりの人選を行わせた。その手腕は、地元で「ただ劉功曹(劉毅)の活躍ばかりが耳に入り、杜府君(杜恕)の話は聞こえてこない」と評判になった。

魏の末期に本郡(東萊郡)より孝廉に推挙され、司隷都官従事として辟召され、首都は粛然とした。しかし、当時の河南尹を弾劾しようとしたところ、上官である司隷校尉・鍾会に制止され、劉毅は傳(身分証明書)を投げ捨てて辞職した。

劉毅と同郡の王基は、劉毅の登用を公府に推薦し、太常・鄭袤は劉毅を博士に推挙した。さらに、相国・晋公(または晋王)司馬昭は相国掾として辟召したが、劉毅は病気を理由に辞退した。そこで、劉毅は(既定路線である西晋への禅譲を受け入れず)魏に忠義立てしていると噂になり、司馬昭は劉毅を処刑すると脅した。劉毅は恐れて出仕し、相国主簿に任じられた。

西晋

司馬炎が禅譲を受けて皇帝即位すると、尚書郎・駙馬都尉に任じられ、散騎常侍・国子祭酒に昇進した。司馬炎は、劉毅を忠実かつ正直と評価し、諌官(諫議大夫)として自らへの諫言を行わせた。尚書に昇進したが、職務上の犯罪で罷免された。

咸寧年間の始め(275年頃)、散騎常侍・博士祭酒として復帰し、さらに司隷校尉に昇進した。豪族達を弾劾し、皇族や皇太子が相手でも容赦しなかった。司州の太守・県令は弾劾を恐れて自ら辞職した者が多く、時の人は前漢の諸葛豊や蓋寛饒になぞらえた。

司馬炎の側近で中護軍の羊琇は、官職の口利きを行い、法を犯して親しい者を任官させた。劉毅は羊琇を死刑にすべきと上奏したが、司馬炎は羊琇を処刑したくなかったので、斉王・司馬攸を仲介に立て劉毅を説得させ、劉毅を引き下がらせた。しかし、劉毅の部下で司隷都官従事の程衛は納得せず、羊琇の属吏を拷問して自白させ、羊琇の犯行を上奏し、ついで劉毅に報告した。しかし羊琇は免官だけで済み、しばらくして復職した。 趙王・司馬倫が皇帝の御裘を劉緝に命じて盗ませた時には、劉緝・司馬倫ともに死刑に処すべきところ、司馬倫は皇族なので免罪されると担当官は上奏した。劉毅は反対し、規定通り司馬倫も死刑にすべきと主張した。司馬炎は劉毅の主張に理解を示したが、しかし司馬倫が皇族で叔父であることを理由に赦免した。またある時、皇太子・司馬衷の朝見にあたり、鼓吹(儀仗隊の楽隊)が東掖門に入ろうとした際、劉毅はそれを不敬であるとし、皇太子一行を門外に留め、上奏して太子太保・太子太傅以下を弾劾した。司馬炎は詔を下してそれを赦し、ようやく皇太子一行は入ることができた。

天下統一後のある時、司馬炎が南郊の郊祀を行った後、劉毅に訊いた。「朕は漢のどの皇帝に匹敵すると思うか」。劉毅、「桓帝・霊帝に匹敵します」。司馬炎、「私は、徳は古人には及ばないとはいえ、自分を律して政治を行っている。また、呉・会稽(呉_(三国))を平定して天下を統一した。桓帝・霊帝と比較するのは酷すぎないか」。劉毅、「桓帝・霊帝は売官しましたが、利益は国庫に入れました。陛下が売官すると、利益は権門の手に渡りました。この点から言えば、陛下は桓帝・霊帝にも及ばないでしょう」。司馬炎は大笑いしていった、「桓帝・霊帝の世には、このような発言はできなかった。今の私には、このような直言ができる臣下がいるのだから、同じではないさ」。

司隷校尉に6年在職ののち、尚書左僕射に昇進した。時に、龍が武庫の井戸の中に現れ、司馬炎も自ら目撃して喜色を浮かべた。百官は慶賀しようとしたが、劉毅は鄭や夏王朝の故事などを挙げ、「龍の出現を慶賀する礼はございません」と反対した。尚書郎の劉漢らは、「吉兆を疑った」劉毅を死刑にするよう主張したが、司馬炎は詔で却下した。

九品官人法廃止論

劉毅は、九品官人法は一時的な制度に過ぎず、しかも適切な人材を得られていないと考え、「八損(八つの損害)」があると上疏した。

  1. 今の中正は、才能・人格を適切に評価できていない。党利や愛憎が優先され、相手の権勢を見て郷品を上げ下げし、あるいは賄賂で郷品を宛がっている有様である。その結果、上品には寒門の出自の者はおらず、下品には権勢ある一族の者はいない(上品に寒門無く、下品に勢族無し)結果を招いている。時折そうで無い人事もあるが、個別の事情があるのだ(全体の問題は揺るがない)。これは君主を侮り、時勢を損なうものだ。
  2. (司馬懿が)大中正を置いたのは、輿論を州で一括して処理し、対象人物への評価の差異を無くそうとしたためである。しかし、一人で州全体を把握することは困難であり、にもかかわらず登用の漏れがあれば責任を問われるのは割に合わない。その上、大中正の人事考課を刁攸(刁協の父)に確認させているのは、州の輿論とも職分とも無関係の者に職権を与えるもので、既に刁攸による恣意的な人事の弊害が起きている。
  3. (陳羣らが)九品官人法を作ったのは、基準がまちまちだった人物評価を秩序立てて序列を付けるためであった。しかし、今の中正たちは、私情で中央に出仕できないよう郡の中で抑え込んだり、あるいは郷品を与えないようにしている。一方で、問題のある人物でも権勢があれば抜擢されている。公的な基準で行うべき登用が、中正に私物化されている。
  4. 中正の職権の重さと比較して、中正に対する監査は行われていない。訴訟の弊害よりも、訴える手段のない現状の方が問題。
  5. かつての郷挙里選では、地域の輿論によって人物の程度を把握できた。今は一国(一郡)に多くて数千人の士人がおり、移住者も多く、中正が把握できていない。中正は朝廷での噂話や、対象者のことをよく知らない人物の意見をもとに郷品を与えている。
  6. 職能が高くても低い郷品になったり、在官中に大した実績が無くても高い郷品を与えられている。実態として、中正は朝廷による考課の機会を奪い、徒党を組むような連中の利益になっている。
  7. 郷品と適任の官職は必ずしも一致しない。すると、不得意分野に任官せざるを得なかったり、あるいは適職があっても郷品が足りずに任官させられない事態が起きる。
  8. 以前は、対象者の善悪を必ず記録し、適切な評価を行うことになっていた。しかし、今の中正たちは、理由を明記することなく郷品を上げ下げしている。その結果、派閥人事が横行し、訳も無く処罰される事態が起きている。

以上の弊害を理由に、九品官人法の廃止と新制度の導入を主張した。司馬炎は詔で劉毅を称賛した。のちに衛瓘らが、九品官人法の廃止と郷挙里選の復活を上表した。しかし結局、九品官人法の改廃は行われなかった。

晩年

劉毅は日夜公務に励み、朝廷でも民間でも評価された。家族にも容赦せず、妻子に過ちがあれば鞭打った。しかし、あまりに厳格で公正すぎるという理由で、宰相には出世できなかった。司馬炎は、劉毅が清貧であるとして、三十万銭を賜与し、さらに毎日穀物と肉を支給した。

70歳で引退を願い出た。しばらくのちに許され、決まった職務のない光禄大夫とされ、洛陽の私邸に帰った。のちに司徒(魏舒)の推挙で青州大中正として復帰した。劉毅はまず、司馬炎の側近から弾劾を始めた。

太康六年(285年)死去し、儀同三司を追贈された。

出典

脚注

参考文献

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