加賀美遠清

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加賀美 遠清(かがみ とおきよ、久安4年(1143年) - 嘉禄3年(1227年)5月11日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。甲斐源氏の棟梁・源清光(武田清光)の三男。

甲斐国巨摩郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市加賀美)を本拠とし、後の小笠原氏南部氏秋山氏大井氏など、日本史上に多大な影響を与えた諸氏の「総祖」とも呼ぶべき存在である。

甲斐源氏としての立脚

1143年、源清光の子として生まれる。兄に武田信義(武田氏祖)、安田義定(安田氏祖)がいる。加賀美郷は甲斐国内でも水利に恵まれた肥沃な土地であり、遠清はこの地を拠点に強力な武士団を育成した。

治承・寿永の乱と鎌倉幕府創設

1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、兄の信義らと共に甲斐源氏の主力の一人として参戦。

  • 富士川の戦い: 平氏軍を壊滅させる決定的な要因となった甲斐源氏の「夜襲」においても中核を担ったとされる。
  • 頼朝の近習として: 当時、頼朝は勢力を拡大する甲斐源氏を警戒していたが、遠清はその温厚かつ誠実な人柄から頼朝個人の深い信頼を得た。1181年(養和元年)には、頼朝の寝所を警護する「御寝所番」11人の一人に選ばれたが、これは甲斐源氏の中で遠清のみが選ばれた異例の待遇であった。

信濃・遠江の統治

鎌倉幕府の成立過程で、遠清は軍事・行政の両面で重要な職を歴任した。

  • 信濃守護職: 1185年(文治元年)、平氏追討の功により、信濃国の軍事指揮権を与えられた。これは後の小笠原氏が信濃を本拠地とする伏線となった。
  • 受領としての活動: 1188年(文治4年)には遠江守に任じられ、従五位下の位階を賜る。当時の御家人として国司(守)に任じられることは最高の名誉であり、武田信義ら他の甲斐源氏諸将が頼朝から警戒され粛清・失脚していく中で、遠清の一族だけは幕府の中枢で安定した地位を築いた。

宗教的帰依と文化

遠清は篤く仏教に帰依し、本拠地の加賀美に法善寺を建立(あるいは再興)した。

  • 現在、法善寺に伝わる国重要文化財の「木造阿弥陀如来坐像」や「木造大日如来坐像」は、遠清が平家追討の戦死者を弔うために安置したものと伝えられている。
  • また、承久の乱(1221年)の際には、既に高齢であったが幕府軍の勝利を祈願したとされる。

系譜と一族の分出

加賀美遠清の最大の特徴は、彼の子たちがそれぞれ日本史を代表する名門の祖となったことである。これほど多くの一流氏族を輩出した例は極めて珍しい。

信濃守護となり、小笠原氏を創設。室町幕府の「三管領」に次ぐ名家となり、武家礼法(小笠原流)を確立した。
南部氏の祖。奥州合戦の功により陸奥国糠部(ぬかのぶ)を与えられ、後の盛岡藩、八戸藩などの藩主家へと繋がる。
秋山氏の祖。信濃や甲斐に根を張り、戦国時代の名将・秋山信友へと続く。
加賀美氏の本領を継承した。

墓所・遺構

脚注

関連項目

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