勢力忠四郎
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子供の頃から相撲が強く草相撲を取っていたところ、5代清見潟(元前頭筆頭・志貴ノ海幸蔵)に見出され、1876年に上京して、4月に清滝の四股名で初土俵を踏んだ。1880年5月に勢力と改名、1886年1月に数え31歳で十両昇進を果たした。その後、十両を通算6場所務めたが、師匠との折り合いが悪くなり、1888年には一時境川部屋に転籍している。1891年5月に清見潟相続人に内定した。1894年から1895年にかけては、日清戦争の近衛力士として従軍、遼東半島と台湾に渡った。1895年6月に一度引退したが、師匠が隠居しなかったので、弁護士を立て、1897年暮れに手切金と清見潟名跡相続権を勝ち取った。だが、1898年1月2日、師匠が勝負検査役選挙に当選し、なおも年寄であり続けようとしたため、勢力は1月場所に力士として復帰した。5月場所限りで師匠が隠居したので、勢力も力士を引退し、6代清見潟を襲名した。勢力は事業家としても知られ、回漕業と鉱山を経営、妻も芸妓屋を営んでいた。協会内では勧進元を2度務め、検査役も2度務めたが、神経衰弱から失明してしまい辞任した。1919年、実弟の四男を上京させて力士とし後継とした。病気療養中、1920年1月7日に自宅で死去し、清光院忠譽見道潟淨居士の諡号が贈られた[2] 。