北朝鮮臨時人民委員会
1946年2月8日から1947年2月20日に存在した北朝鮮に存在した臨時政府
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北朝鮮臨時人民委員会(きたちょうせんりんじじんみんいいんかい、ハングル: 북조선림시인min위원회)は、1946年2月8日~1947年2月20日に存在した北朝鮮に存在した臨時政府である。
1945年12月に朝鮮半島南部において在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁によって朝鮮人民共和国が禁止された。これを受けて、朝鮮半島北部において共産主義者が権力を集中させる必要性が生じたため、ソ連占領軍は1946年2月8日、当時地方ごとの人民委員会に分裂していた各委員会を統合した。北朝鮮における最高行政権力機関とみなされたこの委員会は、土地改革や主要産業の国有化などの改革を実行する事実上の臨時政府となった。
その後、1947年2月21日に北朝鮮人民委員会へと引き継がれ、北朝鮮が朝鮮民主主義人民共和国へと移行する中での臨時政府の役割を果たした。
歴史
1945年8月の第二次世界大戦における大日本帝国の降伏に伴い、朝鮮全土に人民委員会が設立された。朝鮮半島北部に入ったソ連軍はこれらの人民委員会による行政を承認しつつ、1945年10月3日に自らの占領統治機関であるソビエト民政庁を設置した。
ソ連が北朝鮮に中央集権的な政府を作ろうとした初期の試みとして、北朝鮮五道行政局が挙げられる。これは1945年10月8日に設立され、当時北朝鮮で最も著名な人物であり、ソ連側の将来の北朝鮮指導者候補の一人であった民族主義者かつ平安南道人民委員会委員長の曹晩植が率いていた。この委員会は、共産主義者と民族主義者の同盟によって構成された、北朝鮮の5つの道人民委員会の代表者らによって作られた一時的な自治機関であった。しかし、ソ連と曹晩植の間のイデオロギーの対立や、モスクワ評議会が提案した朝鮮の信託統治に対する曹晩植の反対を理由に、1946年1月にソ連が曹晩植を逮捕したことで、北朝鮮五道行政局は終了した。
1946年2月8日から9日にかけて、北朝鮮の政党、社会団体、人民委員会、行政局の会議が開催され、北朝鮮臨時人民委員会が設立された。この共産主義者が主導する新しい委員会の委員長には、ソ連の後援を受けて北朝鮮の指導者になりつつあった共産主義者の金日成が就任した。この委員会は事実上の臨時政府となり、1946年3月に金日成が発表した「20箇条政綱」に従って、土地改革や主要産業の国有化などの改革を北朝鮮国内で推し進めた。ソビエト民政庁は北朝鮮臨時人民委員会と並行して機能し続けたが、その役割は顧問的な立場へと変わった。
北朝鮮臨時人民委員会は、1946年11月に地方人民委員会選挙を実施した。これは1947年2月の北朝鮮人民会議の選挙に向けた準備であり、これにより1947年2月21日に北朝鮮人民委員会が組織され、北朝鮮における後継の臨時政府となった。
組織
北朝鮮臨時人民委員会は、1946年2月8日から9日にかけてソ連の主導により開催された、政党、社会団体、行政局、人民委員会を巻き込んだ「北朝鮮のすべての政党、社会団体、各行政局、道・市・郡人民委員会の拡大臨時会議」を通じて組織された[2]:109–110。
この会議には137人の代表が参加し、その内訳は朝鮮共産党代表2人、朝鮮民主党代表2人、独立同盟代表2人、総労働職能同盟代表2人、総農民組合同盟代表2人、女性同盟代表1人、民主青年同盟代表1人、宗教団体代表1人、朝ソ文化協会代表1人、11人の行政局長、および人民委員会の代表らであった[3]。
会議の初日である2月8日、金日成は北朝鮮の政治情勢と臨時人民委員会の創設問題に関する報告を行った。続く2月9日には北朝鮮臨時人民委員会の委員23人が選出され、委員長に金日成、副委員長に金枓奉、書記長に康良煜が就任した[3][4]。

また、北朝鮮臨時人民委員会は10の部と3つの局(後に4つの局に増設)で構成されていた。[4]
後に、交通部長の韓一進は許南熙に、商業部長の韓東燦は張時雨に交代した。また、1946年9月に労働部が新設されると呉淇燮が労働部長に就任し、新たな宣伝局長には李清源が就いた[4]。
改革
1946年3月23日、金日成は北朝鮮で実施される改革の基礎となる「20箇条政綱」を発表した。
- 朝鮮の政治および経済生活における、旧日本帝国主義統治のすべての残滓を完全に一掃する。
- 国内の反動要素および反民主主義要素に対して容赦のない闘争を展開し、ファシストや反民主主義的な政党、団体、個人の活動を絶対に禁止する。
- すべての人民に言論、出版、集会、信仰の自由を保証する。民主的な政党、労働団体、農民協会、その他の民主的な社会団体の自由な活動の条件を保証する。
- 全朝鮮人民が、普通、直接、平等、秘密投票に基づく選挙を通じて、統一された地方行政機関である人民委員会を組織する義務と権利を持たせる。
- 性別、信仰、財産の有無に関わらず、すべての市民に平等な権利を保証する。
- 住居および個人の不可侵、そして市民の財産および個人所有物の合法的な保証を主張する。
- 旧日本帝国主義統治時代に使用され、またその影響を受けたすべての法的・司法機関を廃止し、民主主義の原則に基づいて人民司法機関を選出し、法の基ですべての市民に平等な権利を保証する。
- 人民の福利を向上させるために、工業、農場、交通、商業を発展させる。
- 大企業、輸送機関、銀行、鉱山、森林を国有化する。
- 私的な手工業および商業における自由を許可し、奨励する。
- 日本人、日本国籍者、反逆者、および小作地経営を行う地主から土地を没収して小作制度を撤廃し、すべての没収土地を無償で農民の所有とする。すべての灌漑施設は国家が無償で管理する。
- 生活必需品の市場価格を制定することにより、投機家や高利貸しと闘う。
- 単一かつ公正な税制を制定し、累進所得税制を実施する。
- 労働者および事務員に対して8時間労働制を導入し、最低賃金を規制する。13歳未満の労働を禁止し、13歳から16歳の労働者には6時間労働制を導入する。
- 労働者および事務員のための生命保険を導入し、労働者および企業のための保険制度を実施する。
- 普遍的な義務教育制度を導入し、国家管理のもとで小学校、中学校、高校、大学を広範囲に拡大する。国家の民主主義制度に従って人民教育制度を改革する。
- 民族文化、科学、芸術を積極的に発展させ、劇場、図書館、ラジオ放送局、映画館の数を拡大する。
- 国家機関および人民経済のすべての部門で必要とされる人材を育成するため、専門学校を広範囲に設置する。
- 科学および芸術に従事する個人や企業を奨励し、援助を与える。
- 国立病院の数を拡大し、伝染病を根絶し、貧困層を無償で治療する[5]。
1946年3月8日、北朝鮮において土地改革が実施され、日本人や日本法人、親日派、地主、宗教団体から土地が没収された。没収された土地は42万世帯に再分配された。北朝鮮の全土地面積の52%、土地所有権の82%が再分配の対象となった[4]。
1946年6月24日には8時間労働制が導入され、危険な業務に従事する労働者には7時間労働制が適用された。14歳未満の労働は禁止された。また、労働者への同一労働同一賃金や社会保険制度も導入された[4]。
1946年7月22日、北朝鮮における男女平等法が制定された[4]。
1946年10月10日、1,034の主要な産業施設(北朝鮮の全産業の90%に相当)が国有化された[4]。
1946年11月3日、北朝鮮臨時人民委員会のもとで立法府の議員を決める総選挙が実施された。
1946年12月27日、北朝鮮の農民は収穫の25%を農業税として納めることが決定された[4]。
1947年2月20日、立法組織として「北朝鮮人民会議」が新設された。同時に、従来の臨時人民委員会(行政組織)は行政府の「北朝鮮人民委員会」へと再編成され、正式な政府体制が発足した。
