1930年6月に戦前の地方紙ではまれな印刷工の労働争議が起こった[5]。
労働争議の根底には低賃金であることや、男女が同じ更衣室を利用することなどの労働条件に対する不満があった[6]。
直接のきっかけは、北越新報の創立50周年記念式典で、当時式典に向けて労働者に10日以上の残業を続けさせていた。式典は5万円以上大金をかけた盛大なものであり当日には従業員にもご祝儀が配られたがその額が20年勤続者でもわずか10円という少額であった。このことが直接のきっかけとなって6月16日の朝からストライキが始まった[6]。
ストライキに参加して籠城する134名[7]全員を狭い細野事務所に置くことができず、分散させれば切り崩されるので、労働者側は学校町に家を借りて全員籠城した[4]。
労働者側はデモ行進やビラの配布などで町の人にも支援を訴え、北越新報のボイコットを要請した。21日には労働者側の演説会が市公会堂で開催され、当日の入場者は3000人、さらに会場に入れない2000人が公園にあふれたという[6]。
しかし、会社側は強硬で労働争議は長引き労働者側は少しずつ切り崩されていった。7月28日には争議参加者のうち争議団本部へ顔を出すものは8名となり、60名は会社へ出勤し、80名は会社にも争議団にも行かないという状況だった[6]。
労働者側は新聞社の重役室に突撃[4]。また、全国労働者組合同盟の大山峻らが会社と交渉し争議は終結した。結果、復職や金一封の支給などが認められただけで[8]、労働者側の幹部が失職して刑務所に送られ惨敗に終わった[4]。最大の要求であった労働者の待遇改善については、会社が誠意をもって行うということだけで具体的な内容は盛り込まれなかった[6]。
会社側が労働者側を簡単に押しつぶせたのは憲政会の加藤高明が党勢拡張のため北越新報との資本関係を強化していたためとも言われている[5]。