北野孫兵衛
From Wikipedia, the free encyclopedia
山代慶長一揆
毛利藩は、折からの財政難に直面しており、その維持のため領内全てに対し慶長検地を行なった。この検地は慶長12年(1607年)から3年のあいだ続き、結果として課せられたのは7つ3分(現在でいう73%)という極めて厳しい重税であった。この税率に困窮した生活を強いられた領民の声を行動に移す動きが広がり、府谷村の庄屋・西村次右衛門を始めとする11村落の庄屋が立ち上がり孫兵衛も加わった。孫兵衛らは代官所へ嘆願を行い4割の減税などを求めた。
慶長13年(1608年)10月、藩は嘆願をいったんは受け入れる形で年貢における高率の負担を撤廃したが、翌年の3月28日、代官所は、この動きを一揆暴動と処断し、これを主導した孫兵衛に出頭命令を下した。翌日、出頭した孫兵衛らには即日死罪の判決が下され、孫兵衛を含む11人の首謀者全員は縄を打たれ、引地峠で斬首された。孫兵衛らの首は本郷まで運ばれたのち、本郷川の土手に建てられた梟首台の上に晒されたが、夜になり孫兵衛の領民数名が彼の首を盗み、成君寺裏手の赤江の地に葬った。一方で、孫兵衛らの意向に反して藩の検地に進んで協力した庄屋達は、この一揆に加わらず村落は安堵されたが、この一揆を境に、山代では室町以来残ってきた中世的な国人思想の強い自由自治政治は消滅し、近世の幕藩体制が浸透してゆく契機ともなった。