生家は江戸新橋の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。狂歌を元木網に、国学を山岡浚明に学ぶ。江戸深川に住し、博覧強記をもって村田了阿と並称される[2]。行年83。西久保巴町の天徳寺に葬る。
町人の学者として、狩谷棭斎(津軽屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される[注釈 1]。貧しい生計を立てながら酒は一滴も飲まず、暇さえあれば著述の筆をとったという。火事で三度も著書を焼き、改めて稿を起こすと前のと少しも違わなかったとも伝えられる[4]。彼の性格については、喜多村信節が「お祭りを見るのが好きだった」と書いている。