千木良卓也
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ちぎら たくや 千木良 卓也 | |
|---|---|
| 生誕 |
1984年5月3日 |
| 出身校 | 東洋大学 |
| 職業 | 株式会社クラウドナイン (芸能プロダクション)代表取締役、実業家 |
| 著名な実績 | Adoのプロデュース |
| 公式サイト |
千木良卓也(@chigira_takuya)・Instagram 千木良卓也(@chigira_takuya)・X |
千木良 卓也(ちぎら たくや、1984年〈昭和59年〉5月3日 - )は、日本の音楽プロデューサー、実業家。株式会社クラウドナイン (芸能プロダクション)代表取締役。群馬県前橋市出身。東洋大学卒業。
群馬県前橋市に生まれ、地元の小中学校を卒業後、強豪校である群馬県立前橋商業高等学校へ進学。東洋大学卒業後は美容業界の商社に勤務した。その後、独立と挫折を経て音楽業界へ転身し、GReeeeN(現:GRe4N BOYZ)のマネージャーなどを経験。2019年に株式会社クラウドナインを設立し、Adoをはじめとする数多くのアーティストを輩出している。2023年からは日本音楽制作者連盟の理事も務める。
生い立ち
群馬県前橋市生まれ。前橋市立大胡中学校、群馬県立前橋商業高等学校を経て、東洋大学を卒業した。
美容業界から音楽業界に
2006年(平成18年)、東洋大学を卒業後に滝川株式会社に就職。美容室やネイルサロンなどに美容系の商材を販売する会社で6年勤務する。
2012年(平成24年)、28歳で独立し、エステサロンや岩盤浴などの店舗経営をスタートさせる。その後、2014年(平成26年)、30歳で一度無職の状態となり「仕事がない、死ぬかも」と考えていたところ、当時GReeeeN(現:GRe4N BOYS)のマネージャーからの連絡でHigh speed boyz inc.に入社。GReeeeNのマネージャーとして4年間勤めたのちに、2018年(平成30年)に退社した。
同年、アイドルグループ「夢みるアドレセンス」のプロデューサーに誘われ、アシスタントプロデューサーを始める。その仕事をやりながら、美容か、音楽業界で起業するか、悩んだ末に音楽業界での起業を決意し、2019年(令和元年)に株式会社クラウドナインを設立した。
クラウドナイン設立
2019年(令和元年)クラウドナイン創業。「cloud nine(クラウドナイン)」とは、英語の慣用句で「とても嬉しい」「有頂天」を意味する。この語源は、雲の中で最も巨大で高くまで上昇する雲である「積乱雲」にあるといわれており、この社名には「アーティストにクラウドナインに乗って最も高い場所まで最高の気分で上がってほしい」という願いが込められている。会社設立当初は、下北沢の自宅にて、社員1名・資産100万円・HPなしというゼロからのスタートであった。
2020年(令和2年)、レコード会社から声がかかるアーティストが出始める中、事務所初となるみゆはんのワンマンライブを開催。しかし、コロナ禍で仕事が次々にキャンセルとなる。そんな中、Adoが事務所に所属。その後もコロナが猛威を振るい、資金がつきかけ、昼はUber Eatsを運びながら合間でリモート会議や電話会議をこなし、家に帰ってから朝までパソコンの前にいる状況が続いた。同年6月、Adoとユニバーサルミュージックの契約が成立。2023年(令和5年)9月には「SHOWBIZ」プラットフォームをリリースし、「Cloud Box Lesson」を開校した。
Zipangu開催ときっかけ
2026年(令和8年)5月16日、米国パサデナ (カリフォルニア州)にあるBrookside at The Rose Bowlにて、日本文化に特化した米国内フェスティバル「Zipangu」を開催。収容観客数は約3万5000人で、日本国内アーティストのみが出演する海外音楽フェスとしては過去最大キャパシティとなる。
開催のきっかけとなったのは、2025年(令和7年)にロサンゼルスで行われた「matsuri ’25」への出席であった。YOASOBI、新しい学校のリーダーズ、Adoといった日本を代表するアーティストが出演した本公演であったが、会場はピーコックシアターという中規模のアリーナで、収容人数は7000人であった。この苦い経験から、日本の魅力を発信するフェスにしたいと、大規模な日本文化特化型の米国内フェスティバル「Zipangu」の開催を決定した[1]。
役職歴
- 2019年(令和元年) - 株式会社クラウドナイン (芸能プロダクション)設立。代表取締役社長 就任(現任)。
- 2023年(令和5年) - 日本音楽制作者連盟 理事就任。
人物
小学生の頃からクラブチームでサッカーに打ち込み、通学していた大胡中学でも部活ざんまいの日々を過ごした。進路を考えた中学3年の時「サッカーを続けたい」という理由で、強豪校の一つであった前橋商業高校への進学を決めた。朝6時に登校して朝練、授業後は夜遅くまで続く練習。中央前橋駅まで猛ダッシュして上電(上毛電鉄線)に飛び乗る毎日を送った。途中で辞めていく部員も少なくなかったが「その中で最後まで残ったことは自信につながった」と振り返っている。過酷な部活動であったが勉学も両立させ、情報処理科では簿記や情報処理の資格も取得した[2]。
大学4年の就職活動でも将来像は描けなかった。「とりあえず大手企業に」と、美容系商社の大手に就職。営業成績は部署トップクラスで待遇も十分であったが、20代半ばで「この先40年のサラリーマン人生が想像できてしまった」とふと思い立ち、独立へ気持ちが傾き始める。「失敗してもいいから刺激的な何かに挑戦したかった」として西麻布に岩盤浴エステを開業したが、次第に経営が悪化。倒産前に撤退したものの借金だけが残り、「仕事もお金もない状態」で30歳まで約1年のニート生活に入った。毎朝4時に起き、顔見知りのクラブや飲み屋の店長に「忘れ物のタバコ全部ください」と頼み込み、店員に「朝飯おごって」とたかり、朝食後は次の日の朝まで“省エネ”のため動かないという生活を1年続けた[2]。
転機は30歳。美容業界の知人を介し、GReeeeNやmisonoのマネージャーを務めていた人物を紹介された。「今、マネージャーを探している。千木良、無職でしょ?やる?」と声をかけられ、半ば勢いで面接へ。数曲しか知らなかったGReeeeNが“4人組”であることを知ったのは、採用が決まった後のことであった[2]。