南海泡沫事件
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南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん、英語: South Sea Bubble)は、1720年にグレートブリテン王国で発生した、南海会社(South Sea Company)の株価高騰と暴落、およびそれに伴う金融・政治的混乱である。
南海会社は1711年に設立され、イギリス政府の国債を引き受ける役割を担う一方、南米地域との貿易権を有する会社として発展した。1720年、同社による政府債務転換計画を背景に株式への投機が急速に拡大し、株価は大幅に上昇した。しかし、実際の事業収益では正当化できない水準まで株価が上昇した後、同年後半に急落し、多数の投資家が損失を被った。[1]
事件後、イギリス議会は南海会社の経営や関係者の調査を行い、会社役員や政治関係者の不正な取引が問題となった。財政再建策の策定過程でロバート・ウォルポールの政治的影響力が強まり、後のイギリス政治における重要な転換点となった。[2]
「泡沫(bubble)」という表現は、この時期に多数の投機的会社が設立されたことへの批判から広まり、後世の「バブル経済」という概念につながった。[3]
概要
南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん、英語: South Sea Bubble)は、1720年にグレートブリテン王国で発生した、南海会社(South Sea Company)の株価急騰と暴落、およびその後の金融・政治的混乱である。南海会社は1711年、政府債務の整理と南米地域との貿易を目的として設立された株式会社であり、議会制定法によって法人格を与えられた[4]。
南海会社はユトレヒト条約によって得たアシエント(スペイン領植民地への奴隷供給契約)などの貿易権を有していたが、スペインとの関係悪化や戦争の影響により貿易事業は期待された収益を上げることができなかった。一方で、政府債務を株式へ転換する金融事業を拡大し、1720年には国債引受と株式発行を組み合わせた資本再編計画を実施した[5]。
この計画への期待から南海会社株は急激に上昇し、1720年1月には100ポンド前後であった株価は同年6月には1000ポンドを超える水準に達した。しかし、その後株価は急落し、多数の投資家が損失を被った[6]。
株価上昇の過程では、南海会社以外にも投機的な株式会社設立が相次いだため、政府は1720年に泡沫会社規制法(Bubble Act)を制定し、無許可会社の設立を制限した[7]。
暴落後、議会は南海会社経営陣や関係者の調査を行い、1721年には秘密委員会報告書を公表した。同事件は公信用制度や株式会社制度に対する大きな衝撃となり、その後の金融規制・政治改革にも影響を与えた[8]。
ウォルポールの登場
南海泡沫事件の責任追及に当たり、政府・王室要人の関与を示す決定的証拠とされる「緑の帳簿」と重要な証人である南海会社会計主任ロバート・ナイトの失踪は衝撃的であった。これらを手放すことは南海泡沫事件の真相を知る手がかりを失うことを意味したからである。ナイトの失踪のニュースが流れると、議会では多くの議員たちが怒りの声を上げ、ナイトの捜索が直ちに始められた。
ナイトはベルギーで逮捕されたが、なぜかイギリスに送還されることはなかった。ナイトが送還され証言台に立たされれば大臣のみならず王室にまで累が及ぶことは明白であり、国王とその寵妃による外交圧力が送還を防いだのだとまことしやかに噂された[注釈 1]。
こうした混乱の中、事態の収拾にあたったのが6月に陸軍支払長官に就任していた、財政の専門家として名を上げていたロバート・ウォルポールであった。バブル発生時に政権中枢から外れていたため責任追及される立場にはなかったウォルポールは、1721年までにはこの南海泡沫事件の事務的な処理方針を確定させ、再び経済も回復軌道に戻った。その一方、政治責任を問われるはずの人々に対しては追及の手を緩め、この事件を煙に巻く形で終わりにさせた。
事後処理と責任追及にあたって、ウォルポールは一貫して収賄者に対して寛大であり、大臣や南海会社理事たちをかばう発言を繰り返した。これは現政権が覆るとトーリー党に政権がわたると考えたためであり、彼自身の将来のためにも厳しい追及はできなかった。この手腕は当時の国王ジョージ1世の大きな信頼を得ることになった[注釈 2]。ウォルポールはこの後第一大蔵卿として1742年まで政権を担当し、事実上の初代イギリス首相として、イギリスにおける議院内閣制の基礎を築いていくこととなる。
会計監査制度の誕生

ジョン・ブラントと南海会社の幹部の責任追及のための委員会が議会に設けられ、調査がすすめられた。ここでチャールズ・スネルは南海会社の会計記録を詳しく調べ、幹部の一人だったジャコブ・E・ソウルブリッジの経営するソウルブリッジ商会の帳簿を調査した結果を『ソウルブリッジ商会の帳簿に関する所見』という報告書にまとめ、この報告書が公式に認められた世界で最初の会計監査報告書となった。
このように、東インド会社の成立から始まる株式会社制度の発達は「南海バブル」という危機を表面化し、一般大衆からの資金調達による事業形態には公正な第三者による会計記録の評価が不可欠であることを示し、公認会計士制度及び会計監査制度を誕生させた[9]。
ただし、スネルの報告書は第三者による報告ではなく、被疑者からの依頼で弁護のために書かれたとされる。現在の観点における投資家の保護や利害調整などは含まれておらず、スネルの報告書を批判する匿名文書も流布した[注釈 3][11]。