福岡県小倉の出身。明治7年、工部省権大録・八等出仕となった。明治8年、日本初期の海底電線が開通後まもなく不通となり、故障調査のため汽船明治丸が派遣された。この際、電信頭・芳川顕正、大属・南蠖、監督長ギルバートらが乗船したが、試験機が未整備だったため、障害点が福島沖5海里付近であることのみ確認して帰航した。
技術科修技課長を務め、明治9年には電信修技術校の校長を務めた。
宮崎県に初めて電信が敷設されたのは明治10年(1877年)8月3日で、工部省兼陸軍省出仕の係官であった南が、加治木・福山・都城を経て大分方面への電信接続起工を都城出張所に報じたことに始まる。
明治11年には電信局四等属であった。
明治14年には書記局三等属を務めている。
明治18年には陸軍省九等出仕、明治23年には陸軍属二等出仕となった。