南部利謹
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人物と廃嫡の理由
父の利雄が別名を「惣四郎様(そうしろうさま)」(家臣が進言すると何でも「そうしろ」と答えたという)と呼ばれたのと違い、文武両道で覇気のある人物であった。しかし、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱き、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、これに驚いた父・利雄が幕府に「病気のため湯治させる」と申し出て盛岡に連れ戻し、利謹は廃嫡された。
側室の「るん」を溺愛し、るんの死後はその母親まで妾にするなど、常軌を逸した入れ込みようであった。その後「るん」に瓜二つであった町人の妻(於米之方、油御前)を強引に側室にした。
江戸住みの頃は、昼間から側室の部屋に入り浸り、情事にふけるなど、非常に好色であった。
また寛政2年(1790年)に盛岡藩を旅した高山彦九郎は領民から、若殿(利謹)に政務を批判された役人たちが讒言して押し込めた、という話を聞いたと記している[1]。なお、子の利済は父である利謹の諱の一字である「謹」を自身や子につけている。