南部領伊達領境塚
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1642年(寛永19年)に造成され、山中にある塚は3年毎、里にある塚は5年毎に上置(崩れかかった塚に土を置いて復旧すること)と刈払いをして補修維持された。
経緯
戦国時代のこの方面は葛西氏の領国であり、南部氏と葛西氏は対立関係に、伊達氏に対しては葛西氏は従属関係にあった。葛西氏は天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣しなかったことを豊臣秀吉に咎められ、奥州仕置で改易されており、領国は南部と伊達に分割加増されたことにより、翌天正19年(1591年)頃から南部氏と伊達氏による領国境界問題が生じていた。この問題は豊臣政権から徳川政権の初期にかけて問題となったと考えられており、幕府の調停により寛永19年(1642年)に至り藩境塚を築造して解決に至るまで半世紀を要した。また末梢的な争論はその後も継起し、そのような争論が一応落着した元禄11年(1698年)まで計算すれば約100年ほども続いたとされる。
藩境は奥羽山脈の駒ケ岳山頂から太平洋の唐丹(とうに)湾に至るまでの約130kmに及び、その境界線上に目印として68の大塚の列が築造され(寛永19年、1642年)、さらに大塚の間に無数の小塚を築造した(享保6年、1721年)。これらは当時「御境塚」「御塚」「境塚」「御境目塚」あるいは単に「塚」などと呼称され、補修保全についても厳重な取り決めがなされ、明治初年に至るまで実行された。
明治の廃藩置県および県境線の確定(移動)によりこれらの塚群は境界線としての価値が失われ、道路の拡張や田畑の整備などにより失われ、特に昭和37年5月から38年3月までの間に35か所(大塚7、小塚28)が破壊されたことなどが問題視され、岩手県教育委員会が中心となり昭和39年3月から調査が開始された。
江戸初期には各藩ごとに藩領の国境争論が多発し、1700年代初頭までには自主的に、あるいは幕府の指導や仲裁で国境線が確定し、各地で国境塚や国境石、国境杭などが設置されていたが、岩田孝三は「今にして、こんなに見事な境塚の列が、長い距離にわたって続いているところは、日本中のどこにも見られない[2]」と評価している。
国境と密貿易
なお、この境界線は仙台領にとっては問題が多く、この境界を通じ仙台領から南部領への米を中心とする密貿易が極めて多く、これを取り締まるための人員を配備する必要に迫られた。これは仙台米は南部領では倍額で取引されるほど貴重であったためであり、仙台藩では南部への主要街道に沿う相去村の部落に足軽を102名、屯田兵として常置して取締り(と辺境の開発)に当たらせたという。また相去より西側の境塚の列にそって足軽30人を等間隔に配備し屯田させたという。