厳武
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華州華陰県の出身。幼い時から豪爽な性格で、父の厳挺之から奇才を認められた。しかし、勉学はその意義を究めるにほど遠く、蔭位により、太原参軍に就任し、殿中侍御史に進む。
安史の乱のとき、玄宗に従い、蜀の地に入り、諫議大夫に抜擢される。至徳元載(756年)、粛宗のもとに赴き、房琯に父の厳挺之の名声により用いられ、給事中に用いられる。長安に戻った後、京兆少尹となる。しかし、房琯の失脚により、巴州刺史に左遷させられ、その後、東川節度使に転任する。玄宗によって、成都尹および剣南節度使に任じられる。
唐による長安の奪還後、京兆尹に任じられ、鄭国公に封じられる。黄門侍郎に転任し、元載と深い交流をし、宰相になろうとしたが、果たせず、再び剣南節度使となる。当狗城において吐蕃の7万の衆をうち破り、塩川を攻め取り、吏部尚書を官位に加えられる。
厳武は蜀を治めて、放埒であった。能力がなくても、彼を喜ばせると、莫大な賞賜を与えられた。富裕であった蜀の地は、彼の苛斂誅求のために、逃亡者で空地ばかりとなった。また、かつて自分の判官であり、梓州刺史に就任した章彝を小さなことで怒って、殺してしまった。しかし、外国は彼を恐れ、国境を侵さなかった。また、蜀に流浪して来た杜甫に対し、厚遇したことでも知られる。