ウスリースク
ロシアの都市
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ウスリースク(ロシア語: Уссури́йск, ラテン文字転写: Ussuriysk)は、ロシア連邦の沿海地方南部にある都市。人口は18万393人(2021年)[1]。
ウラジオストクの100 kmほど北に位置し、シベリア鉄道と中国からの鉄道(旧・東清鉄道)・北朝鮮からの鉄道が合流・分岐する交通の要衝である。Yak-40級の飛行機が離着陸できる飛行場が存在する。沿海地方の農業の拠点、交易の拠点、そして陸軍の極東における重要拠点である。
特徴


交易都市だけに中国・北朝鮮との密輸や日本車密輸、売春斡旋を行うマフィアの活動が盛んである。2004年には、ウスリースクを根拠にするマフィア幹部が自らの武勇伝や犯罪、投獄を「当事者」に演じさせた実録ドラマを地元テレビ局で放映させ、生々しい実話や実弾発射を用いたアクションなどで注目を集めた。 なお、ウスリースクはウスリー川沿岸地方に経済的影響力を持つが、その名に反してウスリー川やその支流は流れていない。
郊外に軍事基地がある。2024年にはウクライナ戦線に向かう北朝鮮兵士が駐留していることが報道された(北朝鮮のロシア派兵)[2]。
歴史
古来、同地域は靺鞨が住む地で、後に渤海の支配下に入った。その後は遼や金など北方系の遊牧民族国家に支配されていたが、金がモンゴル帝国の攻撃で衰えた1215年、金の武将だった蒲鮮万奴が自立を宣言し、大真(東真)を建国した。真は現在の同地に「恤品路」を設置して東方の拠点としたが、真もモンゴルの圧迫を受け続け、1233年に第2代皇帝のオゴデイの長男グユク[3]が率いるモンゴルの遠征軍が恤品路で蒲鮮万奴を捕え、同国は滅亡した。その後は明朝により「双城子」(中国語)(ジュル・ホトン、満洲語: ᠵᡠᡵᡠ
ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ, ラテン文字転写: juru hoton) が置かれ、続く清朝は寧古塔[注釈 1]の副都としてフルダン・ホトン(満洲語: ᡶ᠋ᡠᡵᡩᠠᠨ
ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ, ラテン文字転写: furdan hoton; 中国語: 富爾丹城)が置かれていた。その後、ロシア帝国の東方進出が活発となり、1860年の北京条約により同地は清からロシアへ割譲された。
1866年、この地が清国領からロシア領になって6年後、ニコライ1世の名をとってニコリスコエ(ロシア語: Никольское)村が置かれた。東清鉄道との連絡を図るウスリースク鉄道の建設後、この村の重要性は増大し、1898年、ニコリスク・ウスリースキー(ロシア語: Никольск-Уссурийский)市となった。1935年、ヨシフ・スターリンの側近クリメント・ヴォロシーロフ将軍の名を取りヴォロシーロフ(ロシア語: Ворошилов)市に改称された。1953年にスターリンが死去し、1956年に後継者のニキータ・フルシチョフが「スターリン批判」を行ってソ連政府が個人崇拝からの脱却を進めると、1957年11月29日[注釈 2]、同市は現在のウスリースク市に改称された。
第二次世界大戦後、シベリア抑留の日本人がウスリースク(当時はヴォロシーロフ)にも送られた。ヴォロシーロフの抑留者は、劇場の建設作業などに従事して200人余が死亡。遺体は郊外の墓地に埋葬された。1997年には日本政府による遺骨収集事業が行われ、抑留者団体が埋葬地周辺で慰霊碑を建立した[4]。
産業
交通
名所
- ソビエト連邦の崩壊後多くのロシア正教の教会が再建されているが、市内中央の生神女庇護聖堂(Saint Intercession Church)は1914年に建設されて以降、1917年以来一度も手を加えられず、本来の教会のまま使われた沿海地方唯一の教会である。
- ソ連らしい巨大なパレード用広場があるほか、ロシア革命後の日本のシベリア出兵に伴う赤軍戦闘の記念碑などがある。
- 市の北方には、北東アジア最大級の湖でラムサール条約にも登録されている渡り鳥の楽園、ハンカ湖(興凱湖)がある。
- 市内のウスリースク・ドラマ劇場は1937年に建てられた、ロシア陸軍が保有する二つの劇場の内の一つである(もう一つはモスクワにある)。
