取替平

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取替平(とっかえべえ)は、江戸時代飴売り。金銭のやり取りではなく物々交換をする商人で、飴を担いで町中を歩いて回り、不要となった鉄製品を飴と交換した[注釈 1][1]

「とっかえべえ」と呼ばれた飴売りは、左手に持ったを撞木で叩きながら、

めげたらしょ、きせるの古いのととっかえべえにしょ[注釈 2]
きせるの潰れでも 釣鐘のこわれでも べっこうの折レても めけつたら もてきナ とりかへやいにしよ[注釈 3]

という口上を声高に叫びながら江戸の町を歩き回った[2]

交換したのは主に鍋、釜、キセル、折れ釘や壊れた釣鐘などの鉄製品で、持って行けば飴と交換した。大人相手には紙製の煙草入れを交換することもあったが、主な客は拾った折れ釘や壊れたキセルを持ってくる子供だった。交換の際には、大きな飴のかたまりを包丁で叩き割って、「ぶっかき飴」にして渡した。これは、持ち込まれた古鉄の重さにあわせて飴の量を調節できたからだという[3]

家庭から出る古い金属製品はほとんどなく、煙管との交換が主であったため、

  • 飴と取りかへる煙管の五体不具
  • なげ首してきせるの集った飴の荷
  • こふなっちゃ飴ニもあらず古きせる

などと詠われた[1]

とっかえべえの始まり

この商売を考えついたのは、浅草田原町の紀伊国屋善右衛門と伝わる。正徳期(1711年 - 1716年)、善右衛門のもとに郷里の道成寺の僧が訪ね、鐘を建立するための協力を求めた時に、古鉄を集めて飴と交換し、その古鉄を用いればよいと思い付いたのが始まりという[1]

この商売はいっときはすたれたが、宝暦3年(1753年)に神田小柳町の甚右衛門が飴と古銅を交換するため、大きな声で「とっかえべい」と呼び歩くようになった。その後、商売は流行り、宝暦9年(1759年)ごろにもっとも盛んになった。当時、古鉄買いは認可制だったが、売買ではなく交換なので許可は不要だった[注釈 4][1][3]

古金と飴の交換

飴と古金を交換する者は、取替平以外にもいた。

貞享元禄のころの『平仮名太平記』という浄瑠璃に、陣中で「トツケヘベエのあめや」が来たとある。また、『本朝文鑑』五ノ巻の「地黄煎」の解に「此ごろの人覚えたがひて、覗(のぞき)からくりのあしらひと思ひ、古鉄買のきせるの雁首にかへる」とある[注釈 5][4]

埼玉県の北部でも「とっかへべにしょ」などと言って古金物と飴を交換した飴売りがいたと伝わる[注釈 6][5]

福岡市内には、チータラ飴売り(チイタラ飴売り)と呼ばれる飴売りが飴と古鉄を交換していた[6]明治10年前後には、福岡県遠賀郡水巻町の八所神社に置かれていた区役所に、行商の飴売りが来て、古金があれば飴と交換しようと申し出たという記録もある [注釈 7][7]

北九州市八幡西区木屋瀬の「ピータラ飴」も、古金物と飴を交換する商いだった[注釈 8][8]

朝鮮半島では、近代でも古金物やその他の廃品を飴と交換する飴売りがおり、日本国内でも朝鮮人飴売りが飴と古金の交換をしていた[9]

福井県勝山市では、昭和のはじめごろに、「朝鮮飴」という飴を古金物と交換していたという[注釈 9][5]

脚注

史料

参考文献

外部リンク

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