現在は城跡を中国縦貫自動車道が通っている。また、その南に土居跡があり、鎌倉幕府から下ってきた地頭・広沢与三実高(後、地名の和智氏を名乗る)の住居跡と推測されているが、未調査のためはっきりしない[2][3]。
この付近に和智邸があったと仮定すると、1302年(正安4年/乾元元年)冬、後深草院二条が厳島神社詣での帰途、和智邸及び江田邸に立ち寄ったことが日記『とはずがたり』に書かれている[4][5][6]。
和智氏は、室町時代初期の応安年間(1368-1375年)に広島県三次市吉舎町の備後・平松山城、更に南天山城へ移ったとされる。