史彦超
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勇猛粗野な性格で、胆力があり、功績を重ねて龍捷軍都指揮使となった。乾祐3年(950年)、郭威が大名府で起兵して開封府に向かうと、彦超は龍捷軍を率いて従った。広順元年(951年)、後周が建国されると、彦超は虎捷軍都指揮使の何徴とともに晋州を守った。北漢の劉崇が遼軍とともに侵入し、晋州を包囲した。このとき晋州にまともな将軍がおらず、知晋州軍州事の王万も協力の姿勢を欠いたが、彦超は何徴と協力して抗戦の態勢を固め、敵の攻撃をたびたび撃退した。後周の朝廷が枢密使の王峻を援軍として派遣してくると、漢軍と遼軍は撤退した。後周の太祖(郭威)は彦超の守城の功を嘉して、厚く賞賜をほどこした。彦超は龍捷軍右廂都指揮使に任じられ、ほどなく鄭州防禦使として出向した[1][2]。
顕徳元年(954年)、劉崇が潞州に進攻し、これに対して太祖が親征すると、彦超は先鋒都指揮使となった。高平の戦いで先頭に立って敵陣を陥し、功により華州節度使に任じられた。周軍が北漢の太原府城下に到達し、遼軍が忻州と代州のあいだに宿営して北漢を救援すると、魏博節度使の符彦卿が後周の諸将を率いて忻州に駐屯して遼軍をはばんだ。彦卿は遼軍を忻州で襲撃した。彦超は先鋒の軍を率いて遼軍を追撃して、猪突して孤立し、遼軍の伏兵に遭って、戦死した。太師の位を追贈された[3][2]。