史敬鎔
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李克用に仕えて帳中綱紀となり、親任された。天祐5年(908年)、李存勗が晋王位を嗣ぐと、その叔父の李克寧がひそかに李存勗を害して取って代わろうと計画した。敬鎔は李克寧に誘われて、その陰謀を知った。敬鎔が貞簡太后に告発すると、貞簡太后は張承業や李存璋らを召し出して李克寧らを捕らえさせた。李克寧らが処断されると、敬鎔は功績により刺史を歴任した[1]。同光元年(923年)、左街使となった[2]。同光3年(925年)、華州節度使として出向した[3]。天成元年(926年)、安遠軍節度使に転じた[4]。天成3年(928年)、入朝して右金吾衛上将軍に任じられた[5]。天成4年(929年)、左金吾衛上将軍に進んだ[6]。長興元年(930年)4月、威勝軍節度使として出向した[7]。7月、死去した[8]。太尉の位を追贈された[1]。