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司法の危機

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司法の危機(しほうのきき)では、青年法律家協会に所属する裁判官に対する再任の拒否にまつわる一連の出来事について概観する。

新左翼の活動が活発化する1960年代、マスメディアは青年法律家協会は左翼系団体であり、多数の裁判官会員が存在していると批判的報道を行なった。司法への不信感が発生する中、戦後、再任を拒否された裁判官11名のうち[1]、1971年3月31日に熊本地方裁判所の裁判官が再任を拒否された件や司法修習生の任官拒否は、青年法律家協会に所属する裁判官に対する思想を理由とした人事であろうという批判が巻き起こった。これに対し最高裁判所は、国会などでその主張を否定している[2]。これら一連の出来事は「司法の危機」(しほうのきき)と呼ばれていた[3][4][5]。岩瀬達哉等は青法協の裁判官部会に加盟していた裁判官に対する差別人事があったとして「レッドパージ」になぞらえて「ブルーパージ」と呼んでいる[6][7][8]。

概要

1954年、破防法反対運動の中から生まれた青年法律家協会(青法協)は[9]、1960年安保闘争[10]の安保条約改定阻止法律家会議を構成する組織の1つであった[11]。1957年、青年法律家協会は司法修習生(九期)を会員にむかえるようになり、1963年6月、青法協裁判官部会発足(会員数約140名)[12]。その頃の青法協議長はのちに日本共産党から参議院議員となる近藤忠親弁護士であった[13]。

1950年初頭、田中耕太郎最高裁判所長官は司法の政治化による法廷闘争や裁判官への思想的脅迫事件及び世界観の断絶等の「司法の危機」について言及した[14][15][16]。いわゆる「荒れる法廷」[17][18]は1978年弁護人抜き裁判法案提出という状態に至る。

1967年羽田事件、1968年1月佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争等、新左翼の活動が活発化する中[19]、右派の雑誌『全貌』1967年10月号は「裁判所の共産党員」特集を組み、雑誌『経済往来』は青法協の中華人民共和国訪問や容共団体的性質があると報道[20]、『日経連タイムズ』9月28日号は青法協は左翼法曹人養成機関であり、思想的浸透と偏向判決への影響があると報道[12]、1967年11月1日衆議院法務委員会で自由民主党森山欽司衆議院議員は裁判所職員等で構成される全司法労働組合の左派的活動問題をとりあげた[21]。

1968年7月、全貌社は青年法律家協会に裁判官230名司法修習生約400名が所属し裁判所の外からは左翼活動、内からは人事でハサミ撃ちしていると報道[22]。8月、自由民主党機関紙『自由新報』は「偏向裁判は行われている?青法協があやつる公安労働事件」と報道した[12]。その頃、日大紛争、明大紛争、神田カルチェ・ラタン闘争、新宿騒乱発生。社会運動参加者への検察による拘留請求が地裁で却下され再び社会運動へ参加して拘留請求され却下される繰り返しとなり国家公安委員長赤沢正道が裁判所を強く非難[23]、不満は高まった[24](以下、時代背景として新左翼の主な活動も併記)[25]。

1969年1月11日、石田和外最高裁長官就任。その頃の青法協議長は後に日本社会党から衆議院議員となる佐々木秀典弁護士であった。19日、東大安田講堂事件発生。3月25日、東京都教組事件最高裁判決を受けて法務大臣西郷吉之助が裁判所だけには手がだせないが、もはや何らかの歯止めが必要と発言、4月22日、倉石忠雄は「この判決は立法の趣旨と違う」と強く批判、1969年5月13日、自民党は東京都教組事件最高裁判決に対し司法制度調査会を設置、偏向裁判を改めさせるために弾劾裁判や訴追委員会を活用するべきとの声が上がり、最高裁は司法の独立を守るため岸盛一事務総長名で反論した[26][27]。

長沼ナイキ事件

1969年9月14日、自衛隊を違憲とした唯一の判決を1973年9月7日出すこととなる長沼ナイキ基地訴訟札幌地方裁判所裁判長へ札幌地方裁判所所長が「国の裁量権を尊重するように」と書いたメモを地裁裁判長が公開、裁判干渉だという批判が起き、9月15日、札幌地裁裁判官会議は所長を厳重注意処分、裁判長を注意処分とし、9月20日、最高裁判所臨時裁判官会議は裁判所法80条に基づき所長へ注意を与え東京高裁判事として転任させた[28]。

1969年9月21日、森山欽司議員が札幌地方裁判所裁判長は京大時代に学生運動で逮捕されたことがある青法協会員であり問題があると発言[29]、鹿児島地家裁所長は国民協会機関誌10月1日号で裁判官が反体制的法律家団体である青法協に加入しているのは大問題であり、最高裁は脱会勧告を出すべきだと述べ、10月8日各新聞社の紙面でも報道され、最高裁は現職地裁所長による最高裁処分への批判の妥当性並びに書簡での助言は前例があったはずという事実とは考え難い所見について批判的見解を示し[30]、10月14日福岡高裁は所長を厳重注意した[28]。青法協は反論、マスコミ各社は裁判官の団体加入批判を展開(昭和44年10月13日朝日新聞社説[31]、16日毎日新聞社説[32]等)した。

……しかし、政治的問題について意思表示を行うこともある団体に、裁判官が加入することの是非が、司法部内外の一課題となっていたことは事実である。むろん、裁判官にも思想の自由はあり、また裁判所法で禁止された「積極的政治運動」以外の、政治の自由や団体加入の自由はある。それゆえに、今日まで、裁判官のこの種の団体加入の是非は、難問として公式に討議されたことはなかった。が、これが司法に課された一つの重要な宿題であることは変わりない。

「司法権の独立」「裁判の公正」という点を重視して、この問題を見た場合、原則論としてであるが、裁判官は、政治的色眼鏡でみられるような団体には加入を避けた方が賢明ではあるまいか。そのような団体に加入していると、たとえ当人は、中正独立の立場を堅持していても、判決の結果はそう受け取られない場合が生ずるからである。あれは何々団体のメンバーだから、当然ああした判決となるであろう、といった評価が一般となっては、裁判に対する信頼は徐々に失われることになりかねない。

裁判官は、廉潔性と公明性を至上のものとする以上、このような非難を受けかねない地位から遠ざかるのが、賢明であろうと思う。公正であると同時に、公正であると国民に受取られるような姿勢を堅持することが、その職責の一つではあるまいか。 — 朝日新聞、社説「飯守初見」の渦紋について[31]

名簿と脱会勧告

1969年11月5日、全貌社は青法協会員裁判所職員の名簿を出版[33]、橋本公亘中央大学教授は自身の経験を例に全貌社の名簿は会員ではない法曹家の名前も記載されている不正確なものであり、また青法協側の会員の把握も大雑把なものであることを示した[34]。下田武三元最高裁判事はわれわれには、誰が青法協会員であるかは、全くわかりません。事務当局からも資料として出されてきません[35]と述べており、実名非公開である司法修習生の会員資格確認の困難性を示した。

ジャーナリストの山本祐司は最高裁事務総局の29名の局付判事補のうち9名が青法協会員であったと記し[36]、最高裁事務総局の二十代局付判事補15名のうち10名が青法協会員であり、1970年1月14日、10名全員が青法協脱会の内容証明郵便を出したという[37]。差分の1名がなぜ生じたのかはわからないが、全貌社が公開した名簿には9名の局付判事補が掲載されている。全貌社が公開した名簿の局付判事補は、最高裁判所長官、最高裁判事2名、高裁長官2名、内閣法制局長官、高裁総括、最高裁調査官、依願退官した裁判官のキャリアを積んでいる。

1969年11月頃から1970年夏頃まで青法協会員裁判官への脱会勧告が行われたという[12]。青年法律家協会第22回総会の報告によると、脱会勧告から約1年後の裁判官部会の脱会者は約1割、第22回総会当時の裁判官部会会員数は約200余人であったという[38]。同年9月、赤レンガ闘争発生。

身分保障

下級裁判所の判事は最高裁の名簿を基に内閣が任命、任期は10年で再任されることができ(日本国憲法第80条、裁判所法第四十条)、裁判官は公の弾劾・国民審査・職務遂行不可能状態以外の理由では、意思に反する免官・転官・転所・職務停止や報酬の減額から護られる(日本国憲法第78条、裁判所法第48条)。最高裁長官は内閣が指名し天皇が任命、最高裁判事は内閣が任命する(日本国憲法第6条)(日本国憲法第79条)(裁判所法第三十九条)

任官拒否

1970年4月、青法協会員2名を含む3名の司法修習生の任官拒否は思想を理由としたものであろうという批判が起きた[12]。4月8日、岸盛一事務総長の談話という形式で最高裁の公式見解が示された。

裁判官の任用について、差別待遇があると二十二期司法修習終了者代表が主張しているが、裁判官志望の某君らが不採用になった理由は、人事の機密に属することなのでいっさい公表できない。ただ、同君らが青法協会員であるという理由からではない。一般的な問題として、裁判官はその職責上、特に政治的中立性が強く要請されているのは当然である。これと同時に裁判は国民の信頼の上に成立っており、裁判官は常に政治的に厳正中立であると国民に受取られるような姿勢を堅持することが肝要だ。裁判官が政治的色彩を帯びた団体に加入していると、その裁判官の裁判がいかに公正であっても、その団体の活動方針にそった裁判がおこなわれたと受取られる恐れがあり、裁判が特定の政治的色彩に動かされてはいないかとの疑惑を招く。裁判は内容が公正でなければならないだけでなく、国民から公正であると信頼される姿勢が必要であり、裁判官は各自が深く自戒し、いずれの団体にせよ、政治的色彩を帯びる団体に加入するのは慎むべきである — 最高裁判所岸盛一事務総長(談話)、最高裁長官の戦後史,1985.[39]

1970年4月18日、法務省は長沼訴訟担当札幌地裁裁判長に対し、青法協会員であることを理由に忌避の申し立てを行った。5月1日、東京地裁竹田稔判事は新聞紙上で青法協への批判に対して反論した[40]。

……一連の判決を「偏向判決」と名付け、この判決に青法協会員が指導的役割を果たしているとの議論があります。……ある政党による「裁判制度調査特別委員会」設置の構想、すなわちすべての裁判官の判決傾向を調査し任用の資料にするという、まさに司法権の独立、裁判の独立を無視し、裁判官の思想信条の奥深くにまで立入ろうとした驚くべき構想などと考え合わせると、私たちは裁判官のあるべき姿が今ほど深く問われているときはないとひしひしと感じないではいられません — 東京地裁判事_竹田稔、青法協裁判官への批判に答える,毎日新聞[40]

1970年5月2日、石田和外最高裁長官が……極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、その思想は憲法上は自由だが、裁判官として活動することには限界がありはしないか。法律的な意味でなく、常識的にいうと道義的には国民から認容されないのではないか……[41]とコメント、賛否両論の議論が起こり、学者・評論家グループから訴追請求された。同年3月、よど号ハイジャック事件発生。

1970年6月、花田政道横浜地方裁判所判事は、青法協会員裁判官への脱会勧奨は法的根拠はなく……最高裁・高裁・地裁の判決を「偏向判決」と呼び、最高裁主流を形成する新刑訴派が下級裁判所を支配しているためだ、とまで形容しているとマスメディアの論調に苦言を呈し、青法協会員裁判官としての立場を説明し反論した[42]。青年法律家協会裁判官部会の実態を詳しく説明し、会誌『篝火』の記載内容についても一部紹介した[43]。竹田稔東京地裁判事は、裁判官の内心の自由を憂慮し下記のようにまとめている。

そこで憲法第七六条三項の良心を、憲法一九条の良心と異なって、客観的なものとして構成し、そうすることによって良心と法とのギャップを埋めようとする努力がなされてきた……私たちは、たやすくこれらの努力による成果を捨て、裁判官の思想・良心そのものに対する干渉という、重大な誤りを犯してはならない……青法協会員であることが、裁判の中立性を害するものでも、裁判の公正を疑わしめるものでもないことは、札幌地裁の福島裁判長忌避申立却下決定が、事実にもとづいて明確に判断している — 竹田稔(東京地裁判事)、裁判官の思想・良心・結社の自由と政治的中立性、法律時報[44]

1970年7月5日、東京新聞は青法協はどのような組織なのか報道した[45]。

福島裁判官に対する国側の忌避申し立てを却下した札幌地裁松野嘉貞裁判長は決定理由の中で「福島裁判官の属する青法協は組織として長沼事件を支援しておらず、公正を妨げるものではない」としながらも「青法協は広い意味の政治団体」と性格づけしている。この“定義”に青法協は「誤った判断」と強く反発……しかし機関誌「青年法律家」の二十一期司法修習生歓迎号では、「一九五五年の衆院選挙当時、護憲勢力が衆院で三分の一以上の議席を占めないと改憲の危険が発生するかも知れなかった。このような情勢で護憲勢力が組織的に結集され、改悪阻止運動を強化する必要が生じ、青年法律家の間でも改悪阻止を志す人々の結集が図られはじめた。こうして青法協は誕生した」と設立の政治的背景を伝えている。……毎年開かれる総会の活動報告書をみると、その年の重要な政治的課題と積極的に取り組んでいる。四十二年治安立法反対、四十四年大学臨時措置法、出入国管理法、旅券法反対など。これらの闘争を通し、それまでの調査研究、情宣活動から一歩進み、政治的大衆闘争に参加する動きを強めていったが、この傾向が生まれたのは六〇年安保闘争以後のことといわれている。昨年の活動方針では「安保条約廃棄、沖縄返還が青法協にとってまさにその存在理由をかけた戦い」と規定、同年五月の全国総会でははっきりと「安保廃棄を活動方針の中心にすえること」を決めている。……会員は約二千人(四十三年五月現在)。内訳は弁護士約千人、全国の弁護士の約八分の一を占め、裁判官は全体の一割にあたる二百四十三人。学者百四十人、修習生約四百五十人。……現在協会出身の代議士は五人いるが、共産党二、社会党二、民社党一といろいろで、統一した支持政党はない。……このほか、日本民主法律家協会(民法協)に自由法曹団、総評弁護団、全司法と共に団体加盟し、その傘の下で反権力とみられる政治活動をしており、最高裁が青法協を「政治団体」と批判した(五月十四日付裁判所時報号外)大きな理由の一つも、この民法協との結びつきにあった。……昨年九月十日の日本民主法律家協会の機関紙「日本民法協」では同ナイキ基地訴訟を「砂川、恵庭事件をいっそう発展させた憲法裁判基地闘争、この裁判闘争に対する支援活動が民法協にとって今後の大きな課題になる」と評価し、法廷闘争を反安保闘争の一環としてとらえている。「裁判官の思想を統制するような発言はまさしくレッドパージだ」と石田長官見解をはげしく非難する“良心派”といわれる裁判官たちも、青法協のこのような行き方が法曹人としてのワクを越えた、きわめて政治的なものと批判、なかでも具体的な訴訟について一方の当事者支援をめざす団体に裁判官が加入することが中立、公正であるべき裁判所として許されるだろうか、と強い疑問を投げている。 — 東京新聞、青法協の実態とその周辺[46]

1970年7月27日、伊藤正己東京大学教授は元最高裁長官横田喜三郎との対談で下記のように意見した[47]。

幸いなことに、日本では、裁判官の公正性について、国民の強い信頼がある。しかし、ここにきて、政治的意味のある裁判が相次いだため裁判への国民の信頼がなくなったというのではないがその公正さについて疑問を持つ人も出てきた……ある団体に加入し、あるいは言論活動をしても、当の裁判官は「裁判とは無関係」という自信があるだろう。しかし外部の人からは「あの人の裁判だから、こういう結果が出た」と思われがちだ。やはり裁判官には「公正にみえる」ことが大切で、「公正にみえる」ことを害する行為や言動は裁判官として避けなければならない……政治的意見があったり、政治的意図があるんじゃないかと言われる団体に裁判官がはいっては困る — 伊藤正己東京大学教授、裁判官の思想は自由か、讀賣新聞[47]

1970年9月5日、奥野健一元最高裁判所判事は青法協は実質的に日本民主法律家協会と同じ性質の組織であるとの判断を示し、……だから裁判官は憲法99条で憲法を尊重するという義務があるのですから、自分の信念、思想、良心がどうしても現行憲法と矛盾するということになると、裁判官を退くべきだと思うのですね。「この憲法のとおりにやることが出来ない。」という信念を持っておるとするならば、「それを器用に使い分けるということは出来ないのではないか。」と石田君が言っておるのも無理のないところもあるのではないかと思いますね……との見解を示した [48]。

また、橋本公亘中央大学教授は……共産党規約の前文によれば、「党の目的は……人民の民主主義革命とひきつづく社会主義革命を経て、日本に社会主義国家を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を建設し、それを通じて高度の共産主義社会を実現することにある。」すなわち、革命を標榜している団体であることは間違いないのです。暴力政党であるかどうかということは、今度の大会で否定しておるわけですけれども、その決議を見てみますと、「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的障害を作り出す場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集して、このようなファッショ的な攻撃を封殺することが当然の課題となる。」といっています。人民政府が出来る以前でも実力行使をあえて辞さないということをはっきり書いてあるわけです……その裁判官は、裁判官の法的義務と党員の義務の衝突に悩まされることになると思うのです。すなわちその両者の義務は両立しない……との見解を示した [49][50]。

小林俊三弁護士は……裁判官になった以上は、裁判官としての自から公正であるという主観的な信念自負ばかりでなく、前にも出ましたけれども、外から見ても正しく見えなければならない。公正らしく見えなければならないということになります……[51]との見解を示した。

任官拒否された司法修習生に占める青法協会員の人数を大阪弁護士会は下記の様に把握している。

さらに見る 期, 修習終了年 ...
最高裁から新任拒否された人々の期別内訳_()は青法協会員
期 修習終了年 人数
22 45(1970) 3(2)
23 46(1971) 7(6)
24 47(1972) 3(2)
25 48(1973) 2(2)
26 49(1974) 2(0)
27 50(1975) 4(2)
28 51(1976) 3(3)
29 52(1977) 3(1)
30 53(1978) 2(1)
31 54(1979) 5(5)
合計 34(24)
大阪弁護士会司法問題対策委員会編「新任拒否・現行落第制度の実態と問題点」(昭和55年3月)48頁より孫引き[52]
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1970年10月、裁判官訴追委員会が、青法協会員であることなどを理由に民間から訴追請求されていた裁判官213名に対し、青法協加入の有無を調査し、批判が起きた[12]。同年6月23日、日米安保条約自動継続となる。8月、東京教育大学生リンチ殺人事件発生。

1970年12月22日、鹿児島地家裁所長公開質問状事件が発生、所長による思想調査であるという批判が起きた。所長は解職処分となり裁判官を辞任した[12]。

1971年1月22日~26日、司法行政事務協議会において各高裁地裁代表39名が集められた26日の会議では、青法協が政治的色彩をおびた団体である点では疑問は全く出ず、青法協が国民から政治的色彩を帯びた団体とみられている以上、裁判官が加入することは好ましくなく脱退すべきだという点で意見が一致、再任官を迎える裁判官についてもまさに青法協会員であることが問題となっているのだから脱退すべきだという意見が述べられた[53][54]。同年2月、真岡銃砲店襲撃事件発生。

再任拒否

1971年3月31日、青法協会員判事5人を含む十三期63人の裁判官が再任官を希望したが、最高裁裁判官会議は熊本地裁判事補1名の再任を拒否した[55]。その理由は人事の機密を理由に公開されていない。青法協会員であるという理由だけではないと説明されている[56]。また、二三期司法修習生7名が任官を拒否され、4月2日、法務省は1名の検事任官希望を拒否した[54]。通説では、ハト派の裁判官を含めて最高裁裁判官会議において異論は無かったという[57]。野村二郎は当時裁判官会議で議論に加わった最高裁判事に退官後意見を聞くと「最高裁の措置に誤りはない」との考えで一致するが、不再任の理由は人事の秘密として未公表のままであると記している[58]。抗議した司法修習生が罷免されたが、1973年1月31日再採用となっている[59][60]。全裁判官の約4分の1にあたる22地・家裁の463名の裁判官による熊本地裁判事補の再任を求める最高裁への要望書が5月2日までに集まり、5月3日、青法協裁判官部会の裁判官約200名が最高裁長官へ抗議の要望書を提出した[61]。1971年5月8日、日本弁護士連合会は「臨時総会・裁判官の再任拒否に関する決議」で「司法の危機」をうったえた[3]。

後日、松本正雄元最高裁判事は当時の様子を下記のように述べている。

「坂口君が青法協のメンバーであることを特に問題にしなかったのは事実です。品位をはずかしめた行動自体が問題になったのです。判事補の再任問題は、裁判官会議にかけられる名簿のうち何人かが問題になり、その中に宮本判事補が入っていました。これも、青法協のメンバーだからということではありません。最高裁は結局、理由を示しませんでした。」

-そうです。あの措置はいまも当然だと思われますか。
「そう思います。……しょっちゅう電話、電報があり、大衆運動化していました。夜中にかかってくるのも随分あり、しまいには電話をはずしてしまったこともあったくらいひどいものでした。」
-裁判官会議では激論はなかったといえましょうか。
「そのときはたいした議論はなかったといっていいでしょう……」
-そうしますと、決をとるという形ではなく落着したということで・・・・・・。

「ええ、決はとりませんでした。極端に対立すると決をとらざるをえませんが、そういう状況ではありませんでした。司法修習生の問題は、卒業できないのはかわいそうだという気持ちがありましたが、結局は復活の道は開かれました。」 — 松本正雄元最高裁判事、[62]

1971年5月、中村治朗東京高裁判事が論文「青法協問題と裁判官の思想・信条の自由および言論・結社の自由について」を発表、裁判所部内で広く流布されたという。青法協の政治性、裁判官の中立性への倫理的義務と適性、裁判官の青法協脱退要望、裁判官の青法協加盟がもたらす政府与党の司法への圧力行使への誘因性を説いた[63][64]。7月10日、青法協第22回総会にて、ことし修習生になった二十五期生約五百人のうち青法協会員は百二十四人で、六月末に創立集会を開いたと報告された[65]。同年8月、朝霞自衛官殺人事件発生。

後日、石田和外元最高裁長官は…青法協は、青法協だけではないですね。外部の勢力に結びついていく。そういう団体には、裁判官はモラルとして所属すべきでない……これは右翼団体だって同じです。……誰からみても、中正であるという態度を裁判官はとるべきだと、絶えず考えてきたわけです[66]と回想。

色川幸太郎元最高裁判事は青法協狩りをやっているという逆宣伝に結びつけられたんですね……しかし、裁判をする以上、外部の政治的勢力とは相当の距離を置くべきだと思います。これはしかし自律であるべきです。他律じゃいけない。青法協はいまは不活発だが、あのころまでは派手な政治活動をやっていましたね。決して純然たる研究団体ではありません。いまは変わってきているかもしれませんが、あのころは政治的色彩の濃厚な団体だった[67]と語った。

横田正俊元最高裁長官はいろいろの見方があるでしょうが、(※青法協は)問題はないと思います[68]と述べた。

小川信雄元最高裁判事はしかし、とにかく青法協に入ってる裁判官がいろいろと勉強することは結構だが、政治活動や社会運動をして、裁判官の公正に対して世間から疑いをもたれることはよくない、それだけは慎んでもらいたい、そういうふうにしか私は受け取りませんでした[69]と述べ、下田武三元最高裁判事はたとえ青法協であっても、それだけでは落とせませんからね。……判事補は青法協ではなかったでしょうが、彼でも立派に採用されて、あとになって不適格だったとわかるんです[70]と語った。

横田喜三郎元最高裁長官は、青法協は次第に勢力を強めてきたのである程度用心しなければならない雰囲気だったが、まだ初期の頃で必ずしも共産系の人と同一歩調をとっていたとは感じなかったとコメントした上で下記のように語った。

裁判官の政治的中立性については、これは絶対的です。裁判官は、政治的に、絶対に中立でなければなりません。そうして、あくまで法律に忠実でなければなりません。法律そのものに従って、法律そのものをそのままに適用するようにしなければなりません。イギリスに、裁判官は法律の口であるという諺があります。法律の口であり、法律そのものがものをいうのであって、裁判官がいうこと、決定することは、法律そのものがいうこと、法律そのものが決定することである、という意味であります。裁判官の口は、裁判官である人間の口ではなく、裁判官である人間がものをいい、法律そのものが決定する、というのです。決して政治的に法律を解釈したり、決定したりしてはならない、ということです。これは裁判官として絶対なことで、すこしでも政治的に解釈したり、決定したりするならば、それはもう裁判官としての資格がなく、裁判官ではない、というわけです。このことは、いくら強調しても、強調しすぎるということはありません — 横田喜三郎元最高裁長官、[71]

1971年9月11日共闘組織「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」九段会館にて結成。呼びかけ人は末川博、市川総評弁護団議長、成田社会党委員長、野坂日本共産党中央委員会議長他十六名[72]。同年9月16日東峰十字路事件、11月渋谷暴動事件、12月関西大学構内内ゲバ殺人事件、新宿クリスマスツリー爆弾事件発生。1972年にはあさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、早稲田大学構内リンチ殺人事件発生。1973年5月19日石田和外長官退官、5月21日村上朝一最高裁長官は就任の記者会見で司法の危機はないと思うが、誤解があれば今後、解いてゆきたい石田さんが極端な共産主義者や軍国主義者は裁判官に向かないといったのは暴力で憲法体制を破壊しようという思想を排するという趣旨なら同感だ日弁連とも必要があれば話し合ってゆくと述べた[73]。7月、ドバイ日航機ハイジャック事件発生。1973年9月7日長沼ナイキ訴訟で札幌地裁は自衛隊へ違憲判決を出す。1974年には連続企業爆破事件、昭和天皇暗殺未遂事件(虹作戦)等が発生する。

1976年4月、二八期任官内定説明会にて1970年と同じく青法協は政治的色彩を帯びた団体という見解が示されたという[12]。

1984年1月に青法協の組織内から裁判官組織は消滅し、青法協への賛同を続けた裁判官らは如月会を結成した[74][75]。

人事面での冷遇

ジャーナリストの高瀬文人は、青法協会員裁判官への人事面での冷遇について、2005年定年退官した井垣康宏元裁判官[76]の体験をとりあげている[77][78]。清永聡NHK解説委員は1999年定年退官した守屋克彦元裁判官[79]から冷遇を受けたという経験談を『家庭裁判所物語』(2018)の中で著し[80]、それを読んだテレビプロデューサーからドラマ化について相談を受け取材担当となり、『三淵嘉子と家庭裁判所』を著したという[81]。

参考文献

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  • 山本祐司『最高裁物語(下)』講談社+α文庫、1997年。ISBN 9784062561938。
  • 中井憲治「剣道の国際普及に関する一考察」『仙台大学紀要』51, 2、、仙台大学、2020年、65-79頁。
  • 帝国秘密探偵社「矢野一郎」『大衆人事録』第10版、帝国秘密探偵社、1934年、13頁。

脚注

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