吉岡幸男
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千葉県佐倉市出身[4]。習志野市立習志野高等学校では剣道部に所属し、参段を允許された[4]。1968年(昭和43年)に城西大学へ入学して、当時としては珍しい極真会館傘下の空手道部に入部。同期には三浦美幸がおり、主将には同部を創立した当時3年生の添野義二、吉岡の一期上の先輩・二期生には高木薫、後に入部してくる後輩の六期生には花澤明がいる。
添野・高木らから学んだほか、山崎照朝の指導を受け[5]、空手道部が夏合宿を毎年四国で実施していたので芦原英幸にも教わった[6]。1970年(昭和45年)6月22日に黒帯(初段)を允許された[7]。4年生の時、副主将に就く[8]。1971年(昭和46年)、添野道場主催の極真カラテ埼玉選手権大会に出場し、決勝で三浦と対戦[9][10]。吉岡の上段への蹴りとクリンチからの膝蹴りがポイントなり、吉岡が優勝した[10]。
同年の第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会ではCブロックから出場。切れのよいパンチングと蹴り技のコンビネーション[11]で、圧倒的な強さで勝ち上がっていった[12]。芦原門下の四国チャンピオンを判定で下し[6]、Cブロックの代表をかけて大石代悟と対戦。同大会の特筆さるべき好試合となり、大石が柔軟な四股を駆使し、回し蹴り・後ろ回し蹴りと連続して6回繰り出す回転技「風車」で攻めると、吉岡は軽快なフットワークで下がりながらかわす[12]。大石の連続攻撃が途切れた間隙をついて、吉岡がコンビネーションで反撃[12]。大石も軽快なフットワークで捌き、試合は延長・再延長までもつれた[12][13]。吉岡は体重判定で大石に惜敗し[12][13]、同大会6位に入賞した。
大学卒業後、就職して極真会館を去った[9]。しかし中村忠は吉岡の才能を惜しみ、2年ほどニューヨークに指導員として勧誘していたが、吉岡は三浦や添野を通して丁重に断った[9]。