吉江磨磋記
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天保6年(1835年)8月20日、出羽国上山にて佐々木家に生まれる。幼名は儀作(用作)、のち喜吉と称し、壮年期には伝五右衛門を名乗った。俳人としての号は何人、珍茶。父は佐々木儀左衛門、母は美代である[1]。13歳のとき上山藩士吉江家を継ぎ、吉江姓を称した[1]。
人となりは謹直で思慮深く、特に理財に長じていたとされる[1]。戊辰戦争に際し、明治元年(1868年)、奥羽諸藩同盟が官軍に抗する情勢下において、早くから時局の困難を看破し、軍資金を徴収して事変に備えるべきことを建言した。この建言は藩に採用され、越後国七日市陣屋への出張を命じられ、1万7000両を徴収して帰藩した[1]。
同年、会津若松城落城後、同盟諸藩の戦意が急速に衰え、米沢藩をはじめ帰順の気運が広がる中、上山藩内では和戦両派に分かれ藩論が定まらなかった。吉江はこの間、斡旋に尽力し、藩論を新政府帰順へと決するに至らせ、これにより上山城下は兵火を免れたとされる[1]。
明治2年、上山藩四司庶務兼司駅長に任じられ、同年12月には議事院幹事となり、民務幹事を兼ねた[1]。その後、上山藩権少参事、同藩大属を経て、柏崎県十二等出仕、山形県権大属を歴任し、明治9年(1876年)9月7日、陸軍省十三等出仕に補せられた[1]。
明治10年(1877年)には陸軍吏副となり、西南戦争では征討軍別働隊第四旅団に随行して功績を挙げ、勲六等単光旭日章を賜った[2]。明治13年には陸軍東京鎮台記録掛兼糧食課長を務め[2]、明治18年(1885年)には広島鎮台庶務課長に就任した[3]。同年、勲五等に叙せられている[3]。
明治25年(1892年)、満期により後備役に編入されたが、明治27年から28年の日清戦争に際して召集され、近衛師団監督部第二課長となった[4]。翌年、二等監督に進み、明治28年(1895年)11月3日、戦役の功により勲四等瑞宝章および金300円を下賜された[4]。明治29年(1896年)には正六位に叙せられ、同年、満期退役となった[4]。
退役後は自邸に閑居し、俳諧の世界に親しんだ。明治45年(1912年)6月、病没。享年74。墓所は松光寺(東京都港区高輪)に所在する[4]。
辞世の句として、「まて我も一聲鳴かんほととぎす」「よしや身は灰になるとも桜炭」「月に雲顔なでらるる思いかな」の三句が伝えられている[5]。
安政4年(1857年)から明治41年(1908年)に至る日記『吉江磨磋記日記』が現存している[6]。
脚注
参考文献
- 『上山町史 上山郷土史』上山市、1975年。
- 『東京大学史料編纂所図書目録 第二部9』東京大学、1976年。
- 『日本史総覧 補巻3』新人物往来社、1986年。