吉田謙次郎
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貢進生
安政2年12月16日(1856年1月23日)武蔵国江戸下谷御徒町に加賀藩士吉田淳一郎の子として生まれた[1]。幼名は幸太郎、後に謙之助、謙次郎[1]。
明治3年(1870年)前田肇、桜井房次郎と共に金沢藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、安東清人、保志虎吉、関澄蔵等とドイツ語を専攻した[1]。
東京外国語学校
明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ[1]。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった[1]。
1874年(明治7年)外国語学所が廃止、東京外国語学校が設立されると、独逸語学下等第一級に配属され、和田垣謙三、木場貞長、河本重次郎、猪子止戈之助等と共にヴィトコウスキーに語学、ハンゼンに歴史・数学を学んだ[1]。
1876年(明治9年)1月12日雇教員、9月5日教諭補となったが、1877年(明治10年)3月独逸部生徒は東京大学医学部に移されたため、3月10日解任され、11月2日大蔵省紙幣局彫刻部訳官となり、ドイツでの明治通宝製作に関与した[1]。1879年(明治11年)11月22日退職し、11月26日東京外国語学校雇教員に復帰した[1]。
東京大学
1880年(明治12年)2月17日天野光屋との交換人事で東京大学医学部雇教員となり、四等予科・五等予科でドイツ語を教えた[1]。1882年(明治14年)10月准助教授、1883年(明治15年)7月1日東京大学予備門助教諭[1]。
この頃私塾訓蒙学舎でもドイツ語を教えた[1]。
第一高等学校
1887年(明治20年)9月18日大蔵省を離れ、20日第一高等中学校教員、11月第三部(医科)第一級生徒長教員となり、12月20日教諭、1890年(明治23年)頃教授に進んだ[1]。1889年(明治22年)には本郷区丸山新町11番地に住んでいる。
明治20年代には独逸講文会で講義を行ったほか、1896年(明治29年)陸軍中央幼年学校教授を嘱託され、1898年(明治31年)6月勲六等瑞宝章を受章した[1]。
1897年(明治30年)頃第一高等学校独逸文学科主任に就き、また本郷区駒込片町10番地に居住している[1]。
1902年(明治35年)3月31日病気により退職したが、4月1日嘱託講師として残留し、保志虎吉、山川幸雄等老齢の教師と共に英法科でドイツ語を教え、1921年(大正10年)引退した[1]。1912年(明治45年)には代々幡村代々木285番地に居住している[1]。
独逸語専修学校
第一高校退職後、独逸学協会学校附属独逸語専修学校講師を務めたが、家庭の不幸もあって困窮し、1921年(大正10年)関連者によって養老資金の募集が行われている[1]。