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吉見信頼

室町時代の武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

吉見 信頼(よしみ のぶより)は、室町時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏8代当主。

生誕 不明
改名 信頼、徹山(法名)
概要 凡例吉見信頼, 時代 ...
 
吉見信頼
時代 室町時代
生誕 不明
死没 文明14年5月27日(1482年6月13日)
改名 信頼、徹山(法名)
別名 三郎(通称)
戒名 徹山
官位 能登守
主君 大内政弘
氏族 清和源氏範頼流石見吉見氏
父母 吉見成頼 母:周布兼宗の娘
兄弟 信頼、頼興、岸田頼貞、頼高、成廉、
下森頼直、杉野頼豊、夕倉頼元、頼安、
雲松、頼成、立戸頼時
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出自

石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。

生涯

石見の有力国人の一人。応仁の乱が始まると主君の大内政弘(西軍方)に従って上洛し、武功を挙げた。文明2年(1470年)、大内教幸が東軍方の誘いに応じて長門国で挙兵すると、信頼はこれに従った(大内道頓の乱)。しかし、反乱鎮圧に当たる陶弘護に敗北した教幸は、信頼を頼って逃走。再起を図る教幸と信頼の軍勢は、文明3年(1471年)初頭には、長門地福(現・山口市阿東地福)にて大内家臣の末武氏久・延忠・幸氏を討ち取るものの、渡川城・賀年城・江良城などで敗れた。反乱の鎮圧に益田貞兼も加わり、追い詰められた教幸は同年中に自害。信頼は、文明7年(1475年)に元山城(現・山口市阿東徳佐)を攻めるも弘護に撃退された。所領の大半を失った信頼は和睦を求め、文明10年(1478年)に政弘から正式に罪を許される。

文明14年(1482年)5月27日、政弘が山口の築山館で酒宴を開いた際、その席上で弘護を殺害した。しかし自らもその場で内藤弘矩に成敗された(大内山口事件)。信頼が凶行に及んだ理由については諸説あり、道頓の乱以前から領地の境界紛争が生じていた陶氏への不満[注釈 1]や、乱の鎮圧者である弘護への恨みなどが考えられているが、事件直前に家督を弟・頼興に譲っていることから計画的犯行と推測される。また、弘護を殺害した際に凶器として使われた信頼の刀は鵜噬(うくい)と呼ばれる吉見氏家宝の短刀であったがその後「大内政弘からの下賜」という形で父・吉見成頼に返還されていること[2]、弘護の没後に行われた大内政弘による吉見氏討伐も突然中止・撤退して終わったことから、主君である大内政弘がこの事件の背後におり、内藤弘矩による殺害も口封じ目的であったする説もある[3][4]。

脚注

参考文献

外部リンク

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