江戸前期以降に兼松源蔵と小塚源兵衛が中心になって開発した新田が原型である[1]。内陸部の丘陵地などを開発したものである。単一の新田ではなく、名古屋城下東部や名古屋村・前津小林村・御器所村・古井村・本井戸田村・北井戸田村・大喜村・本願寺村・本願寺外新田村・中根村・石仏村・川名村・八事村・丸山村・伊勝村・末森村・鍋屋上野村・大曽根村の各村に跨る散在型新田であり、周辺の村々と複雑に入り組んでいた[1]。開発年代が古い元新田を「名古屋上原新田」「名古屋下原新田」と称し、残りは「後新田」と称した。
江戸期まで一村として扱われており、『寛文村々覚書』によれば概高2208石余であった[1]。散在型の新田であるため、個別の新田に開発者名に因んで別名が付けられることもあり、例えば「川澄新田」「村上新田」「振甫新田」がその例である。明治期の合併に伴い周辺に成立した村や町に編入されて消滅した。