呉兢

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呉 兢(ご きょう、670年 - 749年)は、唐代歴史家官僚。『貞観政要』の著者として知られる。本貫汴州浚儀県[1][2]

経歴

学問に勉励し、経書史書に広く通じた。魏元忠朱敬則に重んじられ、かれらが宰相となると、呉兢は史学の才能により推薦され、史館に宿直するよう命じられ、修国史をつとめた。数か月後、右拾遺・内供奉に任じられた。神龍年間、右補闕に任じられ、韋承慶崔融劉知幾とともに『則天実録』を編纂した。完成すると、起居郎に転じた。まもなく水部郎中となり、父母が相次いで死去したため、呉兢は郷里に帰って喪に服した[1][3]

開元3年(715年)、喪が明けると、呉兢は以前の修国史のまま、諫議大夫に任じられた。まもなく修文館学士を兼ね、衛尉寺少卿・右庶子を歴任した。開元13年(725年)、玄宗封禅のために泰山に赴き、道中でたびたび騎射を楽しんだことから、呉兢はこれを諫めた[1][4]

開元17年(729年)、『国史』が完成しないまま、呉兢は荊州司馬として出向し、制により史書の原稿を持ち出すことを許可された。中書令蕭嵩が監修国史となると、呉兢の編纂した『国史』65巻を取り上げて奏上した。呉兢は台州刺史洪州刺史・饒州刺史・蘄州刺史を歴任し、銀青光禄大夫の位を加えられ、長垣県子に封じられた。天宝元年(742年)、州が郡に改められ、刺史が太守に改められると、呉兢は鄴郡太守となった。のちに入朝して恒王傅となった。李林甫は呉兢が老齢であることから任用しようとしなかった。天宝8載(749年)、呉兢は家で死去した。享年は80[1][5]

著書に『楽府古題要解』1巻[6]・『斉史』10巻・『梁史』10巻・『陳史』5巻・『周史』10巻・『隋史』20巻[7]・『唐春秋』30巻[8]・『唐書備闕記』10巻・『太宗勲史』1巻・『貞観政要』10巻[9]・『中宗実録』20巻・『睿宗実録』5巻[10]・『呉氏西斎書目』1巻[11]・『兵家正史』9巻[12]・『五蔵論応象』1巻[13]・『唐名臣奏』10巻[14]があった。

脚注

伝記資料

参考文献

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