周密 (五代)
From Wikipedia, the free encyclopedia
はじめ河東節度使の李克用に仕えて、軍職をつとめた。晋王李存勗が鎮州を平定し、李嗣源が中都県を襲撃するにあたって、周密はいずれも従軍して功績を挙げた。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が後梁を滅ぼすと、周密は鎮州馬軍都指揮使に任じられた。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、周密は河東馬歩軍副都指揮使に累進した[1]。
後晋の天福元年(936年)、周密は冀州刺史に任じられ、検校司徒に累進した。入朝して右羽林軍統軍・検校太保となった。天福4年(939年)秋、鄜州節度使・検校太傅に転じた。鄜州の民衆の反乱が起こったため、周密はこれを鎮圧した[1]。天福7年(942年)、建雄軍節度使に任じられ[2]、検校太尉を加えられた。開運元年(944年)、入朝して右龍武軍統軍となった。開運3年(946年)秋、延州節度使として出向した。この年の冬、契丹が開封府を陥落させると、延州で軍乱が起こり、高允権を延州節度使に擁立した。このとき周密は東城に拠り、高允権は西城に拠り、互いに対立した[3]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が太原府で起兵し、安撫の使者を送ってくると、周密はその城を放棄して太原府に逃れた。劉知遠に従って開封府に入った。後周の広順元年(951年)、太子太師として致仕した。顕徳元年(954年)春、死去した。享年は75[4]。