周防正季
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日本時代
1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。この頃暇を見つけては夜学に通い建築、設計、製図を学ぶ。これが将来役に立った。
朝鮮時代
1921年(大正10年)3月、海外雄飛の希望に燃えて京畿道技師警察部衛生課長(当時の衛生行政は警察が担当した)。麻薬中毒の撲滅に没頭した。上司に認められ、現職のまま、1926年(大正15年)9月から1927年(昭和2年)7月まで、欧州の衛生事情を視察、帰国後は現職と開城慈恵病院医官、京畿道麻薬中毒患者治療所を主宰。
一方京城帝国大学薬理学教室に籍をおき杉原教授の指導の下、モルフィン中毒に関する論文を多数発表。1932年(昭和7年)京都帝国大学により医学博士の称号を得た。論文は「モルフィンの家兎腸管に及ぼす作用について」である。
熱心な実践活動により京畿道の麻薬中毒が一掃されたが、日本軍部や朝鮮人有力者の資金源であるので元の木阿弥であったという。
日韓併合後のハンセン病対策
院長時代と大療養所の建設
患者の収容
周防は、日本での無らい県運動に倣う形で半島でも熱心に患者を収容した。患者を地域ごとにボスの下に組織化しボスと共に一党まるごと大勢で入所するという方法が採られ、(内地での収容が多くても数十名だったのに対し)一度に数百名の単位で収容するなどスケールの大きさに会議では問題にならなかったというエピソードがある。
研究活動と日本らい学会総会
殺害
1940年には周防園長の銅像が建立されている。周防自身は強く反対したものの、園長の歓心を買おうとした患者ボスが半ば強制的に献金するなどして建立が強行され、このため周防は「レプラ」に弁明の手紙を出している[2]。銅像の建立については、当時収容されていた患者の一人が以下の様に述懐している。
院長の銅像を建てにゃならないのだが、とにかく私たちも何もかも差し出さねばいけないのだが、一日三銭、余計に働く人は五銭。銅像を建てた。後は夜明けの3時に銅像を拝めと言われた。銅像参拝、神社参拝、「私はキリスト教徒だからそんなことはできない」と答えて監禁室に入れられて死んだ人々がたくさんいました。 — TBS『筑紫哲也 NEWS23』インタビュー(1997年12月・滝尾英二記)
1942年(昭和17年)6月20日朝礼時に、収容されていた朝鮮人患者に刺殺された。