肥後国人・和仁親続の三男あるいは四男とされる。親続とオランダ人の女性との間に生まれたという伝承を持つが、これは親宗が「人鬼」と呼ばれたという逸話から遡って創作された話であり、一次史料や一次・二次資料からはそのような話は一切確認できない[注釈 1][5][6]。
親宗は異相で顔が赤く、目は光輝き、高身長で力強かったとされる。その風貌から「人鬼」とも呼ばれていたという[7]。だが、1587年の肥後国人一揆で和仁一族は窮地に追いやられ、親宗は和仁一族の根拠地である田中城を落とされての敗走中に母の墓に向かう途中で行方不明となったとされる。あるいは、墓の前で一族の後を追って自害したともされる[8]。