和泉村 (愛知県)
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歴史
中世以前
弥生時代中期の中本郷貝塚、弥生時代中期・後期の八斗蒔遺跡(はっとまきいせき)や惣山古墳などがあったが、いずれも後に壊滅した[2][1]。
鎌倉時代の13世紀初頭には伊勢神宮の神領地に指定され、泉御園と呼ばれたことが名称の由来の一説である[1]。石川丈山邸の藪の中に湧き出ていた泉が由来とされることもある[1]。江戸時代には一文字で泉と表記されることも多かった[1]。
近世


元和4年(1618年)には五ケ野原をめぐって桜井村と争いを起こし、和泉村の久津名七右衛門が殺されたとされる[1]。この頃には五ケ野原が桜井村、小川村、和泉村、城ケ入村、中根村の5か村による入会地となる慣例が確立したとされる[2][1]。寛永20年(1643年)から元禄13年(1700年)にかけても城ケ入村との間で土地の帰属を巡る争いが起こった[1]。
江戸時代の初めは甘縄藩領であり、元禄16年(1703年)に旗本の松平万次郎領と天領に二分された(相給村)[2][1]。松平氏の知行は明治維新期まで存続したが、天領分は宝永7年(1710年)に刈谷藩領となった[2][1]。寛政2年(1790年)に刈谷藩領で寛政一揆が発生したことで領地替えの処罰を受け、寛政4年(1792年)には刈谷藩領分が福島藩領となった。1869年(明治2年)にはこの福島藩飛び地が重原藩領として独立した。
村高は『寛永高附』によると573石余、『元禄郷帳』によると622石余、『天保郷帳』や『旧高旧領』によると774石余だったが、油ヶ淵に近かったことから水害による損害も大きかった[1]。17世紀後半には綿作が発展し、延宝8年(1680年)以後の年貢割付状には木綿畑が登場する[2]。18世紀初頭には畑高の半分以上が綿畑高だった[2]。
和泉村の豪農としては都築弥厚がおり、文化9年(1812年)からは松平家の代官を務めた[1]。都築弥厚は天保3年(1833年)には石高2070石、酒造株4160石余を有していたが、天保年間の和泉村には9軒以上の酒造家があったうえ、特産品として和泉そうめんがあった[1]。
近代

1888年(明治21年)の町村制施行に伴い、1889年(明治22年)には碧海郡和泉村が発足した[1]。1891年(明治24年)の戸数は312、人口は1601だった[1]。
1906年(明治39年)5月1日、米津村、西端村、東端村、根崎村、城ヶ入村および榎前村の一部と新設合併して淵辺村となり、和泉村は廃止された。淵辺村の大字として和泉が設置された[1]。
