和田三郎 From Wikipedia, the free encyclopedia 和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。 生い立ち 『山嶽社』を創始した医師・和田千秋の男として、1872年(明治5年)6月22日、高知県土佐郡土佐山村西川に生まれる[1][2][3]。母は乾久四郎の長女(つち)[4]。 1887年(明治20年)、高知教会の会員となる。 1891年(同24年)、植木枝盛の知遇を得る[5]。高知共立学校を卒業後、明治学院神学部へ進学。 1897年(同30年)、土陽新聞に入社しその記者となる。 1901年(同34年)、同上を退職し、板垣退助の書生(秘書)となる。 1902年(同35年)、板垣退助監修のもと、宇田友猪の後任として『自由党史』を執筆。(明治43年に完成し出版) 1905年(同38年)、板垣退助の内命をうけて孫文の設立した「中国革命同盟会[6]」に参加。 1906年(同39年)、宮崎滔天(桃中軒牛右衛門)、平山周、萱野長知(高知共立学校時代の同級生)らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命を支援。 1911年(同44年)、板垣退助の雑誌『社会政策』や、『日本及日本人』、『太陽』に論文を寄稿した。 1926年(大正15年)11月1日死去。享年55歳。 山嶽社 和田三郎の生家は、祖父・和田波治、父・和田千秋が自宅を提供して夜学会を開いた場所で、のちに高知市土佐山地区(旧 土佐山村)の西川集落における自由民権運動の拠点となった『山嶽社』が創始された場所として、1991年(平成3年)、文化財として修復管理されている[7]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ “『山嶽社』”. 高知県の観光情報 (2015年5月1日). 2017年7月29日閲覧。 ↑ “『土佐山の山嶽社』”. 高知市広報『あかるいまち』 (2006年5月1日). 2017年7月29日閲覧。 ↑ 『山嶽社』明治時代にこの地域の自由民権運動の拠点だった場所。板垣退助の秘書、和田三郎の生家でもある。和田三郎は板垣退助の秘書として活躍した人物。建物は1991年(平成3年)に復元された。今は、子供達の勉強会などに利用されている。(『高知県の観光情報』より) ↑ 高知県出身の郷土史家・乾常美は親戚 ↑ 『20世紀日本人名辞典』、「和田三郎」の項 ↑ 後に日本政府の干渉により「中国同盟会」と改称 ↑ “『山獄社跡』”. 土佐の歴史散歩 (2008年9月30日). 2017年7月29日閲覧。 参考文献 『高知県人名事典』高知市民図書館、1971年 『土佐山村史』 『日本教育史資料(巻九)』 『土佐の自由民権』公文豪著、高知新聞社、2013年 関連項目 自由民権運動 板垣退助 辛亥革命 宮崎滔天 平山周 萱野長知 Related Articles