和田由旧

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和田 由旧(わだ よしふる、嘉永4年(1851年) – 明治29年(1896年10月15日)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵大佐。位階勲等は正五位勲四等。要塞砲兵部練習所長陸軍士官学校陸軍大学校教官などを歴任し、砲兵教育および兵器学分野に従事した[1]

和田由旧は愛知県出身の士族で、嘉永4年(1851年)に生まれた[1]

明治4年(1871年)、少尉試補となり、陸軍士官学校学科部員に任ぜられた[1]。明治8年(1875年)に少尉、明治10年(1877年)に中尉へ昇進し、明治11年(1878年)8月28日、勲六等を授与され、士官学校教官となった[1]

明治14年(1881年)頃、大尉に進級し、翌明治15年(1882年)には正七位に叙された[1]。この頃、学科部監事となり、明治18年(1885年)には勲五等を授与された[1]。同年10月16日、陸軍大学校教授心得および陸軍士官学校学科副提理心得を兼務した[1]

明治19年(1886年)5月26日、少佐に昇進し従六位に叙された[1]。その後、陸軍士官学校次長を務め、将校生徒試験委員、砲兵会議員、士官学校兵器学教官を兼ねた[1]

明治22年(1889年)12月30日、中佐に進級し、砲工学校次長兼砲兵会議員に転じた[1]。明治24年(1891年)6月、勲四等瑞宝章を授与された[1]

その後大佐に昇進し、従五位に叙された[1]。1893年(明治26年)には砲兵大佐として砲兵会議長を務めた[2]

日清戦争に際しては、参謀本部第2局付として攻城砲兵隊を統率し、第二軍に属して作戦に従事し[1]、要塞砲兵部練習所長に就任した[1]

明治28年(1895年)9月21日、旭日小綬章を授与され、年金180円を賜った[1]。その後肺疾患を患い、明治29年(1896年)10月15日、横須賀衛戍病院において死去した[1]。享年46。

妻は志儀恭子[1]。二女・せつは陸軍大将森岡守成に嫁いだ[3]。三男和田昌雄は陸軍航空兵中佐となった[3]

評価・人物像

脚注

参考文献

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