唐景思
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幼くして犬を屠殺するのを生業とし、相撲遊びを得意とした。はじめ前蜀に仕えて軍校となった。後唐の同光3年(925年)、荘宗が魏王李継岌に軍を率いさせて前蜀を討つと、景思は部下を率いて固鎮に駐屯していたが、率先してその城ごと李継岌に降った。興州刺史に任じられ、貝州行軍司馬に転じた。契丹が貝州を攻撃すると、景思は捕らえられた。趙延寿に名を知られていたことから、その幕下に属し、壕寨使をつとめた[3][2]。
開運4年(947年)、契丹が開封府を占領すると、景思は亳州防禦使となった。赴任すると、民間の反乱軍数万人に亳州城を包囲された。景思は防戦につとめたが、数日後に城は陥落した。景思は単身で脱出し、人を隣州に派遣して援軍数百を得ると、反乱軍を追い払い、亳州城を奪回した[4][2]。
後漢の天福12年(同年)、景思は鄧州行軍司馬に転じた。鬱々として志を得ず、後に交代を受けて開封に帰った。乾祐年間、景思は沿淮巡検使に任じられ、たびたび南唐の軍を破った。ときに史弘肇が刑罰を濫用して、多くの富商を処断して、その財産を奪い、密告を奨励した。景思の部下の僕夫に不満を抱いている者があり、景思が南唐から賄賂を受けていると誣告した。史弘肇は捕吏に30騎をつけて派遣して景思を捕らえようとしたが、景思は捕吏を両手で抱え上げて冤罪を訴えた。景思の部下や潁州・亳州の人々も景思の無罪を唱えたので、史弘肇も景思を誣告した僕夫を斬り、景思を釈放するよう上奏した[5][6]。
後周の顕徳元年(954年)、北漢の劉崇が進攻してくると、世宗柴栄は自ら六軍を率いてこれを防ぐべく高平に陣を布いた。世宗が漢の降兵数千で効順指揮を編成すると、景思はその指揮使に任じられた。顕徳3年(956年)春、世宗が南唐に対する親征をおこなうと、景思は相次ぐ戦功により、饒州刺史を遥領した。ほどなく濠州刺史を代行し、軍を率いて濠州を包囲した。顕徳4年(957年)冬、戦闘中に負傷して、数日後に死去した。武清軍節度使の位を追贈された[7][8]。