鳥取藩士・吉田隼馬の子として生まれ、生後まもなく唯権太夫政喜の養子となる。。
学芸・武芸に優れ、文学を伊藤玄章、剣術を浅田主計、法術を武宮丹治に学び、さらに馬術・槍・弓・水練・柔道・兵学にも通じ、「可ならざるはなかった」と評された。詩作・絵画にも達したという。
戊辰戦争では正使・桐野利秋に従って会津へ出兵し、副使として従軍した。会津城落城の際、かつて二十万石を誇った大藩主が平伏する姿を見て唯が涙したと伝えられる一方、桐野が剣を振りまわして歓喜したという対照的な逸話が残る。戦後は江戸城取締、宇都宮・会津各城の攻略に功を挙げ、日光県権参事に任じられた。
明治3年(1870年)、海軍軍務局長兼水兵部長に就任。明治7年(1874年)には海軍中佐となった。当時中佐以上は5名しかいなかったが、将官の扱いで水兵本部長官心得を務めた。
明治5年7月5日には、帰京命令を受けた西郷隆盛・西郷従道・野津鎮雄らが同乗していた日進艦において、軍艦手配を依頼された記録が残る。
佐賀の乱では明治7年2月12日、海軍秘書官として大坂丸に乗船し従軍した。
明治9年(1876年)に官を辞し、石川県江沼郡長に転じる。明治12年11月、江沼郡役所開設と同時に正式に郡長に任ぜられ、その後、河村・久米・八橋の各郡長を兼任した。郡長在任中、旧知の山田顕義と再会したことを契機に大審院検事に任じられ、明治24年(1891年)に辞任した。
その後、実業界に転じ、明治21年(1888年)に保険会社設立の発起人に加わり、まもなく発起人総代となって初代頭取、のち初代社長を務めた。また維新後の交友は広く、木戸孝允・山縣有朋・板垣退助らと親交を結んだとされる。