喜屋武城

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別名 喜屋武マーブ、仲嶺マーブ
城郭構造 山城
天守構造 2重
築城主 喜屋武按司一世(安慶名大川按司一世の四男)
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喜屋武城
沖縄県
別名 喜屋武マーブ、仲嶺マーブ
城郭構造 山城
天守構造 2重
築城主 喜屋武按司一世(安慶名大川按司一世の四男)
築城年 15世紀頃
主な改修者 不明
主な城主 喜屋武按司一世
喜屋武按司二世(栄野比大屋子)
廃城年 不明
遺構 石垣
指定文化財 なし
位置 北緯26度21分12.87秒 東経127度50分59.80秒 / 北緯26.3535750度 東経127.8499444度 / 26.3535750; 127.8499444 (喜屋武城)座標: 北緯26度21分12.87秒 東経127度50分59.80秒 / 北緯26.3535750度 東経127.8499444度 / 26.3535750; 127.8499444 (喜屋武城)
喜屋武城の位置(沖縄本島内)
喜屋武城
喜屋武城
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喜屋武城(きゃんぐすく)は、沖縄県うるま市喜仲四丁目にある琉球王国時代の城跡グスク)である。

別名「喜屋武マーブ」、「仲嶺マーブ」または「火打嶺」(ひうちみね)とも呼ばれている。地元では「喜屋武マーブ」の呼称がなじみ深い。海上を見張らすため、首里王府が琉球国内各地の要所に遠見番を置いて、御冠船進貢船薩摩船の入港を王府に通報する烽火台を設置しており、火立(ひたちー)があった場所でもある。烽火台は、現在のうるま市内には宮城島平安座島平敷屋、喜屋武城にあり、喜屋武城は「火打ち城」とも呼ばれていた。

現在、喜屋武城跡は「喜屋武マーブ公園整備事業」によって「喜屋武マーブ公園」として整備され、バスケットコートやテニスコート・遊具施設などのほか、広場や展望台が設置されている。

歴史

喜屋武城は、中北山系の安慶名大川按司一世の四男が築城したもので、同地に派遣されて喜屋武按司と名乗ったとされている。

第一尚氏尚泰久王時代に、勝連城主であった阿麻和利が謀反を起こして中城城護佐丸を討ち、さらに首里城の中山王までも亡ぼそうと企んだ(護佐丸・阿麻和利の乱)。この阿麻和利を討ったのが喜屋武按司の大城賢雄で、その後大城は越来按司に任じて越来城を居城としていたが、第二尚氏初代の尚円王に攻められ、最期は知花城の中腹にある洞窟に追い込まれ、火攻めの末に殺されたとされている。

大川按司は喜屋武グスクを拠点として周辺一帯に勢力を拡大していったため、これを警戒した首里王府の軍に討伐され、廃城になったと言われている。

特徴

現在、城跡内には1か所の拝所が残っており、「マアブノ嶽」といわれている。この嶽は神名を「イシヅカサノ御イベ」と名づけられ、上江洲ノロが拝祀するところと記録されている。同所では城の守護神のために毎年祭祀などが執り行われていたという。城跡の南側には、大きな岩石が割られたような長い岩穴が見える場所がある。これは非常の時の逃げ穴であったといわれ、出口は泡瀬の方にあった。

明治時代末期頃までは、石垣など城としての面影が残っていたが、大正時代に泡瀬の海中道路を整備した際に、城壁の石垣は崩されて道路整備などに使われたという。現在では城郭さえ見ることができない。

位置

出土品

参考文献

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