喜田村朔治
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福岡県築上郡千束村田淵、世々庄屋の西村敬治(福岡県士族)の次男として生まれる[1]。第五高等学校在学中に、当時豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった喜田村寛治の養子となった[1]。喜田村家は、小倉藩士の家柄で福岡県京都郡豊津村豊津に住み、養父寛治は工部大学校採鉱冶金科を卒業したが、病気のため郷里の豊津中学校の教師となった[1]。
1902年(明治35年)東京帝国大学医科大学を卒業後、創設されたばかりの京都帝国大学医科大学眼科にて浅山郁次郎の下で助手となり、翌年5月兵庫県立姫路病院(現:姫路赤十字病院)の眼科部長に招聘される[1][3]。その後、ドイツに留学し、1908年(明治41年)帰朝すると、南満洲鉄道大連医院眼科医長兼南満医学堂教授に就任する。
1910年(明治43年)3月養父・寛治の弟、岩垂邦彦の長女・直子と結婚[1]。大連在職中のことであった[1]。
1916年(大正5年)に内地に引き上げ、京都市北区小山南上総町に居を構え、大阪市東区本町に診療所を開いた[1]。
1944年(昭和19年)秋の終戦間際まで診療を続けていたが、ついにこれを打ち切り京都に隠退中、1945年(昭和23年)脳溢血に倒れ、1950年(昭和25年)9月23日死去[1]。