喰田孝一 From Wikipedia, the free encyclopedia 国籍 日本出身地 福岡県飯塚市生年月日 1936年1月没年月日 2019年3月6日(83歳没)喰田 孝一基本情報国籍 日本出身地 福岡県飯塚市生年月日 1936年1月没年月日 2019年3月6日(83歳没)選手情報ポジション 投手経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 選手歴 福岡県立嘉穂東高等学校 福岡県立東筑高等学校 杵島炭鉱 日炭高松 監督歴 福岡県立東筑高等学校 九州共立大学八幡西高等学校 福岡県立東筑高等学校 この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 喰田 孝一(しょくた こういち、1936年1月[1] - 2019年3月6日[2])は、日本の高校野球指導者。長く福岡県立東筑高等学校野球部監督を務めた[3]。 1936年1月、現在の福岡県飯塚市に生まれる。 幸袋中学校から福岡県立嘉穂東高等学校に進学。1年の時、練習試合で喰田投手の剛球に驚いた福岡県立東筑高等学校は急遽喰田選手の転校を依願し、一年間の対外公式試合禁止を理解のうえで2学期に転校し同校を卒業した[4]。転校後も投手を継続したが仰木彬の投球を受ける捕手として最も優れていたのも喰田であった。1953年(昭和28年)夏の甲子園では捕手として仰木とバッテリーを組んだ[4][5]。 社会人野球では、都市対抗野球に2度出場した[4](杵島炭鉱、日炭高松)。1961年、炭鉱不況で野球部が解散、9月に母校である東筑高の野球部監督に就任した[4]。1966年、いったん母校を離れ、九州共立大学八幡西高等学校(後の自由ケ丘高等学校の前身のひとつ)の監督となり八幡西高等学校野球部の礎を創った。九州共立大学の夜間課程に学んで教員資格を取得し1972年に卒業した。 1974年1月に東筑高監督に復帰した[4][5]。1994年に監督を引退するまで、東筑高監督として、春1回(1985年)、夏2回(1978年、1987年)と、通算3度の甲子園出場を果たした[4][5][6]。1995年監督引退後は副部長として母校野球部に関わったが、「総監督」とも通称された[7]。 定年退職後は、北九州市教育委員会嘱託として中学校での野球の指導にあたった[4]。2005年6月、日本高等学校野球連盟により48人選ばれた「イヤー・オブ・ザ・コーチ」のひとりに選ばれた[4][8]。2019年3月6日、大動脈解離のため死去[9]。 教え子には高信二(のち広島東洋カープ)や中原勇一(のち中日ドラゴンズ)などがいる。 喰田野球(東筑野球)と表現したり、広島東洋カープの積極的走塁に片鱗を見られるというファンも多い。 著書 監督一代、海鳥社、1995年 脚注 ↑ 甲子園高校野球人名事典153ページ、東京堂出版、2004年 ↑ “東筑高野球部元監督の喰田孝一さん死去 83歳”. 朝日新聞. (2019年3月7日). https://www.asahi.com/articles/ASM373QVQM37TLLS001.html 2019年3月7日閲覧。 ↑ “喰田 孝一 ショクタ・コウイチ 監督一代”. 海鳥社. 2016年1月15日閲覧。 1 2 3 4 5 6 7 8 “今年度イヤー・オブ・ザ・コーチに喰田孝一さん 「考える野球」 高校野球”. 朝日新聞・朝刊・福岡: p. 31. (2005年6月14日). "卓越した高校野球の指導者を表彰する今年度の「イヤー・オブ・ザ・コーチ」に、県内から東筑高校の元監督・喰田孝一さん(69)...が選ばれた。「考える野球」を提唱し、甲子園に春1回、夏2回の出場を果たした。… 51年、野球の実力を買われ、1年生で東筑高に転校。現オリックス・バファローズの仰木彬監督が投手で、捕手としてバッテリーを組んだ。… 3年の53年夏には甲子園に出場した。卒業後は社会人野球に進み、都市対抗野球にも2度出場。61年から母校で指揮を執った。いったん退いて九州共立大で教員資格の勉強をしながら八幡西の監督に就任。74年、再び母校の監督に復帰した。… 定年退職後は5年間、「スポーツ振興指導員」として北九州市教委から嘱託を受け、中学校を回って指導した。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧 1 2 3 “[あの夏の熱球群像]平和台物語第2部(3)ライバル監督対決(連載)”. 読売新聞・西部朝刊: p. 26. (1997年7月31日). "明治三十三年に野球部ができた伝統校・東筑を指揮するのは喰田孝一。五三年、東筑が夏の甲子園に出場した時、エース仰木彬(現プロ野球オリックス監督)とバッテリーを組んでいた。... 翌年、東筑を去り、別の高校の監督に就任。この間、大学の夜間に通って教員資格を取得し、七四年に母校の監督に復帰。以後、九四年に退職するまで春夏三度、東筑を甲子園に導いた。" - ヨミダス歴史館にて閲覧 ↑ “ある引退(親と子と それぞれのプレーボール:上)”. 朝日新聞・朝刊・福岡. (1995年6月22日). "... やはり昨夏の福岡大会を最後に三十二年間の監督生活を終えた北九州市八幡西区の東筑高校の喰田孝一さん(五九)はいう。両校は七八年と八七年に福岡大会の決勝で対決し、いずれも東筑が勝った。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧 ↑ “喰田孝一さん 「喰田野球」伝える(気になるこの人)”. 朝日新聞・西部夕刊: p. 3. (1994年9月17日). "第七十六回全国高校野球選手権福岡大会を最後に、東筑野球部監督を引退、副部長になった喰田孝一さん(五八)... は、普段は総監督で通っている。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧 ↑ “指導者48人、高野連が表彰 「イヤー・オブ・ザ・コーチ」”. 朝日新聞・朝刊: p. 23. (2005年6月14日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧 ↑ 『現代物故者事典2018~2020』(日外アソシエーツ、2021年)p.285 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 典拠管理データベース 全般 ISNI VIAF 国立図書館 日本 学術データベース CiNii Books CiNii Research Related Articles