嘉定の和議
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背景
開禧2年(1206年)、南宋朝廷の実権者であった韓侂冑は自らの権力基盤を固める目的で、当時内憂外患に苦しんでいた金国の弱点を突いて北伐を試みた。しかし韓侂冑の予想に反して官界の世論はこの北伐に対して概ね消極的な反応を示し、緒戦での南宋軍の優位もすぐに逆転され、金軍の反撃に各地で敗北が相次いだ[1]。また、対金前線において挟撃に乗り出すことを期待していた四川の軍閥呉曦が金と内通して叛乱を起こしたことは、北伐の破綻を確認させる致命打だった[1][2][3]。同年末から南宋は金との和平を図ったが、韓侂冑を始めとする開戦の責任者の身柄を引き渡すよう金側の要求を受けて交渉は難航した[1]。
開禧3年(1207年)2月、呉曦が官軍に殺され四川の叛乱は平定されたが[4]、淮南を侵攻した金軍の攻勢は止まらず、南宋の朝野では危機感が高まった。金が和平の決定的な条件として自らの首級を強硬に求めていることを知った韓侂冑は交渉を放棄し、抗戦も辞さなかったが、大勢を取り戻すことはできなかった[1][5]。一方、このような情勢を察知した礼部侍郎史弥遠らの主和派は寧宗の楊皇后と結託し、韓侂冑を取り去るための政変を企てた。同年11月、韓侂冑は臨安の玉津園で史弥遠の密命を受けた軍官により暗殺された[6][7]。さらに、韓侂冑政権を支えた要人たちも粛清されたことに伴い[1]、南宋側の和平案に金は大枠同意した[8]。
和議
嘉定元年(1208年)5月、韓侂冑の首級を持参した南宋の使節が金の中都に到着し[9]、同年9月には和議の成立を知らせる寧宗の詔が天下に下された[1][10]。国内の荒廃化と北方で興起し始めたモンゴルの脅威に晒された金も戦争を続ける余裕がなかったため、当初の条件に含まれていた江淮地方の割譲は断念し、名分関係の改正と南宋から支給される歳幣を増額する形式で妥結した。
和議の主な内容は以下の通りである。
- 1. 南宋と金は伯姪関係と定め、金の皇帝が伯父に、宋の皇帝が甥になる(隆興の和議では叔姪関係)。
- 2. 南宋が毎年金に支給した歳幣は銀30万両・絹30万疋とし、以前より各々10万両・10万疋を増額する。これとは別に南宋は金に犒軍銀(戦争賠償金)として300万両を支払う。
- 3. 両国の国境線は開禧北伐の以前通りに戻す。
嘉定4年(1211年)からモンゴルの侵攻により全国土が蹂躙される金は南宋に和議の遵守を強制するだけの実力を失い、南宋でも歳幣支給の可否を巡って論争が起こった。嘉定7年(1214年)7月、南宋は歳幣支給の停止を決め[11]、翌嘉定8年(1215年)には金に対して歳幣の減額を条件に支給再開の意向を示した。金がこれを拒否すると、和議は破棄された[12]。