四ツ柳高茂
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函館の資産家[5]、四ツ柳亮策・イシの長男として生まれる[6]。
函館市住吉小学校[4](現・青柳小学校[7])、旧制函館中学校、旧制水戸高等学校を経て[5]、1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業[3]。東京での生命保険会社勤務の後[8]、肺結核に罹り故郷の函館に戻った後[4]、1936年に帝国電力に入社[4][3]、翌年には米屋を営んでいたヤエと結婚[4]、5人の男児をもうける[4]。1944年には乙種合格で徴兵され旭川通信隊を経て千島方面に配属が予定されるも五十音順で後の方になっていたことから配属漏れとなった[4]。
1948年5月に北海道配電(のちの北海道電力)に転じ、営業職を経て1955年に函館支店長[1]、1959年5月に取締役に就任し、常務や副社長を経て、1974年5月に社長に就任[3]。苫東厚真発電所建設と海外石炭の導入や北本連携設備の整備[9]、泊発電所の建設に関わる[10]。1983年6月に会長に就任し、1988年11月に取締役を経て、1989年6月から相談役を務めた[3]。1984年5月に北海道経済連合会会長に就任し、北海道旅客鉄道取締役も務めた[3]。
1969年10月に藍綬褒章を受章し、1987年に北海道開発功労賞を受賞し、1988年4月に勲一等瑞宝章を受章[3]。
1996年3月20日呼吸不全のために死去[11]。87歳没。死没日付をもって従三位に叙された[12]。
趣味は登山で戦前から本州の山を登り、北電入社後も羊蹄山や大雪山など北海道の殆どの山を登っていた他[10]、野球も行っていた[4]。函館支店時代に稽古をつけられた小唄も長らく嗜み[13]、函館の芸者の間で歌われた「函館さのさ」の3番となる石川啄木の短歌「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや」を織り込んだ歌詞を作詞している[14]。
脚注
- 1 2 北の灯とともに 四ッ柳高茂北海道電力相談役回想録 第1回経営の体質強化に取り組んで - エネルギーフォーラム1991年7月号
- ↑ 四ツ柳高茂「北海道のリニアモーターカー実用実験線(札幌~新千歳空港間)の誘致・建設計画について」 - 経団連月報1987年5月号(経済団体連合会)
- 1 2 3 4 5 6 7 興信データ株式會社 1991, よ1頁.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 北海道電力四ツ柳高茂 自立自存で波乱期克服 - 素顔の社長 生いたちから実生活まで(北海タイムス社 1983年)
- 1 2 北海道電力常務取締役 四ツ柳高茂 - 酒井節雄「電力役員 顔」(電力新報社 1967年)
- ↑ よ之部 四ツ柳高茂 - 人事興信録 第23版 下(人事興信所)1966年
- ↑ 教育委員会 大昔の学校について - 函館市
- ↑ 石炭・石油・原子力・地熱等で安定供給体制を強化する北海道電力 - 経済時代1975年4月号
- ↑ 北の灯とともに 四ツ柳高茂北海道電力相談役回想録(第4回)伊達火力と電源立地 - エネルギーフォーラム1991年10月号
- 1 2 北の灯とともに 四ツ柳高茂北海道電力相談役回想録(第5回)危機から好機へ「泊発電所」 - エネルギーフォーラム1991年11月号
- ↑ 1996年3月21日 日本経済新聞 夕刊 p19
- ↑ 平成8年 1996年4月23日付 官報 本紙 第1878号 9頁
- ↑ 北の灯とともに 四ツ柳高茂北海道電力相談役回想録(第3回)電気料金改定の思い出 - エネルギーフォーラム1991年9月号
- ↑ 四ツ柳高茂「啄木を偲んで」 - 通産ジャーナル1979年11月号(通商産業調査会)