四季 (ハイドン)

From Wikipedia, the free encyclopedia

オラトリオ四季』(Die Jahreszeiten)Hob.XXI-3は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが作曲した、『天地創造』と共に有名な作品。

『四季』の台本作者であるゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵は、イギリスの詩人ジェームス・トムソンの4部からなる長大な叙事詩『四季』のオラトリオ化をはかり、英語の詩をドイツ語に翻訳しながら台本を製作した。

ハイドンがこの台本に基づいてオラトリオを作曲した時期は明らかではないが、作曲に着手したのは1798年4月頃のことで、オラトリオ『天地創造』が初演され、大成功を収めた直後であるといわれている[1]。しかし、それ以後の筆の進みはハイドンにしては珍しく手間がかかり、結局1800年の全体が『四季』の作曲に費やされている。1800年5月11日にハイドンがベルリンの友人(恐らくフンメルであると思われる)に宛てて書いた手紙には、「『四季』については丁度、「夏」の作曲をしているところです。そして、ここ最近は甚だ病気がちなのですが、この冬までには全曲を仕上げたいと望んでいます。けれども、たとえこの難しい仕事が成功でなかったとしても、全ての音楽愛好家たちはその理由をわかってくれるでしょう。」と書かれており、『四季』の第2部「夏」の作曲に没頭していたことが窺える。全曲の完成は1801年初め頃だが、自筆譜が失われているため、正確な日付は判明していない。

初演は同年4月24日ウィーンのメールマルクトにあるシュヴァルツェンベルク侯爵邸の大広間で、ハイドン自身の指揮で行われ、オーケストラと合唱、合わせて180人以上が出演したと伝えられている。また5月1日に同じ場所で演奏が再び行われた後、5月24日にウィーンの宮廷でも演奏されている。一般の人を対象にした公開初演は、同年5月29日にウィーンのレドゥテンザールで行われた。初演後の反響は様々で、聴衆の意見は分かれ、ある聴衆は『天地創造』を上位に位置を付け、また他の人は両者を同等に位置付けたりもし、更にはこの両方の意見に抗議する人もいたという。記録によれば必ずしも一致した賛辞ばかりではなかったという。ただし批判は主に、台本そのものに向けられていたことが判明している。

晩年のハイドンと10年間親しく交わり、ハイドンが亡くなった翌年の1810年に伝記を出版したG.A.グリージンガーは伝記の中に、「ハイドンは『四季』の作曲のため、あまりにも緊張が続いたので、それから後めっきり病弱になった。この仕事を終えて間もない頃、彼はある種の頭痛熱に悩まされていた。」と記している。

台本をめぐるハイドンと男爵との確執

スヴィーテン男爵の台本は必ずしも上出来とは言い難く、台本に作曲するにあたって男爵とハイドンとの間にいくつかの確執が生じていることが判明している。第4曲のシモンのアリアは、ハイドンの交響曲第94番『驚愕』の第2楽章(アンダンテ)のメロディを使用しているが、男爵は批判し、メロディを当時流行したオペラのアリアに置き換えようとして、2、3曲程のオペラの題名を挙げた。この要求に対しハイドンは断固として拒否し、「私は絶対に変えるつもりはありません! このアンダンテは今挙げたオペラのどの歌にも劣らず、よく知られている。そしてこのシーンに相応しいではありませんか!」と言い放った。男爵はこの返事に腹を立て、ハイドンを訪問しようとしなかったと伝えられている。

この他にも、詩的でない台本についてハイドンはひどく不平を言ったり、男爵がいたるところで擬音的な描写をするように勧めたことなど決裂の危機もあったが、辛うじて回避され、『四季』の完成まで協力し合うことになったのであった。

登場人物

シモン(農夫、バス)、ハンネ(シモンの娘、ソプラノ)、ルーカス(ハンネの恋人、テノール)

楽器編成

演奏時間

約2時間10分(各30分、35分、35分、30分)

構成

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI