国家平和秩序評議会
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タイ語:คณะรักษาความสงบแห่งชาติ | |
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NCPOのロゴ。下に大きくタイ語で略称のคสช.と描かれている。 | |
| 略称 | NCPO(国外向け)、คสช.(コーソーチョー、国内) |
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| 設立 | 2014年5月22日 |
| 設立者 | プラユット・チャンオチャ陸軍司令官 |
| 解散 | 2019年7月16日(5年55日) |
| 法的地位 | 軍事政権 |
| NCPO議長 | プラユット・チャンオチャ |
国家平和秩序評議会(タイ語:คณะรักษาความสงบแห่งชาติ、英語:National Council for Peace and Order)は、タイ王国に存在した軍事的政治組織。2014年の軍事クーデターにより成立した組織であり、指導権は陸軍司令官であったプラユット・チャンオチャにあった。

2014年に起きた軍事クーデターにおいて、国軍と王国警察によって設立された国家統制機関であった。この組織は約5年にわたってタイの全権を掌握し続け[1]、クーデター以降の軍政を指揮した。2019年、総選挙によって成立した第62代プラユット内閣の成立に伴い、プラユットがワチラーロンコーン国王への忠誠の宣誓を行ったことにより解散した。[2]
名称
背景
タクシン派の勢力拡大

1990年代、アジア通貨危機に伴ってタイの政界が混乱状態に陥ると、国民の注目は企業政治家であるタクシン・シナワットに向かい、タクシン派(市民団体:反独裁民主戦線、通称「赤シャツ隊」)の増長が目立ち始めるに伴い、彼らに反発し軍や王室に忠誠を誓う反タクシン派(市民団体:民主市民連合、通称「黄シャツ隊」)による政界の二分化が起きた。特にイーサーン地方、タイ北部を支持基盤としたタクシンは、貧困層に重視する政策(タクシノミクス)を打ち出したが、これはバンコクを中心とした都市部の中高級階層や軍などから反発や心配の声を生み、2006年に首相を辞任したものの、実質的な暫定首相として変わりない振る舞いを行ったことで政界の混乱と見たソンティ陸軍司令官を中心としたクーデターが発生。これ以降政界はタクシン派への抑圧や、タクシンも17年にわたる亡命生活を余儀なくされるなどして一応の事態収拾を見せたが、農村部におけるタクシン派への強い忠誠は、司法や軍、さらには同じ国民も対象となった長い混乱を生むこととなった。クーデター後、ソムチャーイ政権が成立すると司法と反タクシン派はさらにタクシン派との対立を深め、最終的に司法クーデターが起きた。アピシット政権後、タクシンの妹であるインラックが政権の座に就いたことで政界の混乱は絶頂期に達した。
国内の混乱

2013年、恩赦提案と憲法改正案を起因として、反タクシン派による反政府デモが勃発した。このデモは国内紛争としては非常に大きいもので死者や負傷者も多数出したが、もはや両者の衝突は歯止めがきかず、銃火器や手榴弾も用いられるほど事態は悪化。インラック政権も支持者へ暴力の停止を呼びかけ、最終的に非常事態宣言を発令したものの事態が鎮静化することはなかった。最終的に2014年5月にインラック内閣は司法クーデターを受け、ニワットタムロンが首相代行に任命されることとなったものの、この対応は事態のさらなる悪化へとつながり始めた挙句、軍の付け入る隙を作ってしまった事になる。
設立

2014年5月20日午前3時30分、陸軍によるクーデターが勃発。プラユット・チャンオチャ将軍は6時30分にタイ特別テレビにて、戒厳法に基づき戒厳令を全国に発布した。[3]22日午後2時、陸軍は議会の主要七党との協議に入った。しかし協議が難航するや否や協議中に主要メンバーの一斉拘束を行った。プラユットは「戒厳を発布する事態になってしまった事を謝罪する」と同時に政権の掌握を宣言し、インラック政権は崩壊した。[4][5][6][7][8]そして午後4時30分、暫定政府の権力を掌握するためとして国家平和秩序評議会発表1/2014号に基づき、国家平和秩序評議会が設立された。[9]