土居明夫
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旧土佐郷士、警察署長・土居正明の二男として生まれる。海南中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)9月から翌年11月まで、シベリア出兵に出征。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業し騎兵第11連隊中隊長に就任。
1928年(昭和3年)12月、陸軍騎兵学校教官に就任し、参謀本部付を経て、1932年(昭和7年)1月から1934年(昭和9年)9月までポーランド・ソ連に駐在した。
1932年(昭和7年)8月、騎兵少佐に昇進。1934年(昭和9年)9月、騎兵学校教官となり、参謀本部員(ロシア課)などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、騎兵中佐に進級。1937年(昭和12年)11月、兼大本営第5課長となり、ソ連大使館付武官に転じ、1938年(昭和13年)7月、騎兵大佐に昇進した。
1940年(昭和15年)3月、参謀本部ロシア課長に発令され、参謀本部作戦課長を経て、1941年7月、定期異動ではない形で第3軍参謀副長に転じ満州に赴任。子息に語ったテープに吹き込まれていた回想によれば、作戦班長の服部卓四郎が辻政信を作戦課に呼びたいというので、『君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ』と断ったところ、服部が土居排斥運動を起こしたという。そこで田中部長に「余を(作戦部から)出すか服部を出せ」といったところ、田中は省部出先軍に対し影響力のある服部を残し土居を出したというエピソードが、土居が死の直前に書き残したメモによって知られている[1]。1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)7月、第3軍参謀長に就任し、関東軍情報部長を経て、第13軍参謀長に異動。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み上海で終戦を迎えた。
1946年(昭和21年)7月、南京政府国防部顧問となる。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]。同年10月に帰国。1951年(昭和26年)3月から1976年(昭和51年)3月まで、大陸問題研究所長に在任。